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2016年9月18日 (日)

野球殿堂記者投票への考察=第39回(1996年度)鉄人・衣笠祥雄、悲運の名投手・藤田元司殿堂入り

Fujita

 前年1票足らずに落選した藤田元司が有資格3年目で199票獲得。当選に必要な174票を大きくクリアして殿堂入り。衣笠祥雄も4度目の挑戦で188票を獲得。1968年にユニホームを脱いで5年という規定となってからは49歳の衣笠は最年少選出(現役監督OKだった1965年川上哲治45歳、同年鶴岡一人49歳)だった。3位以下は3位近藤貞雄148票、4位大杉勝男139票、5位広瀬叔功104票、6位古葉竹識98票、7位松永怜一75票、8位梶本隆夫52票、9位関根潤三52票、10位根本陸夫50票。明治大・島岡吉郎、早稲田大・石井藤吉郎に次いでプロ未経験のアマチュア指導者として元法政大監督で、1984年ロサンゼルス五輪、公開競技ながら野球部門で米国を破って世界一に導いた日本代表監督の松永怜一がノミネートされた。

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2016年9月14日 (水)

野球殿堂記者投票への考察=第38回(1995年度) 日本シリーズ4戦4勝の杉浦忠。殿堂入り発表日に球界に苦言。西村正夫は資格最終年も落選

57d16e62tg4 この年の野球殿堂で会見した杉浦忠は、プロ野球界に苦言を呈したことで知られる。1月25日の競技者表彰発表で、規定の150票を上まわったのは1959年公式戦38勝4敗、日本シリーズ4戦4勝の大車輪の活躍で南海ホークス初の日本一の立役者・杉浦が171票、4年前の元明大監督・島岡吉郎に次いで、プロ経験0ながら早大の選手、監督を務めた石井藤吉郎が160票を得て当選した。杉浦は立大時代に長嶋茂雄、本屋敷錦吾の三遊間とともに右腕エースとして1957年春夏連覇に貢献。下手からの速球とカーブで一時代を築き、前述の1959年には38勝4敗と30勝以上では史上最高勝率の9割5厘。そして、日本シリーズでは4試合中2試合に完投するなど、チーム37イニング中32イニングを投げ6失点だった。第3戦、杉浦完投で王手をかけた鶴岡一人監督は「(第4戦を)勝つには杉浦以外にない。もっとも先発ということはない」と断言していた。しかし、第4戦が雨で順延し休養が与えられて先発し完封勝利を挙げた。読売ジャイアンツは前年の1958年、3勝0敗で迎えた第4戦が雨で順延。これで西鉄ライオンズに流れが移り4連敗。その再現を期待しながら逆に完封負けと、2年続けて恨みの雨となった。

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2016年9月 4日 (日)

野球殿堂記者投票への考察=第37回(1994年度) 日本プロ野球史上最高の人物。王貞治が2人目の資格1年目で当選

Oh 1994年1月19日、野球殿堂の競技者表彰で王貞治が、資格取得1年目としては1960年度のスタルヒンに次いで史上2人目の即当選を決めた。スタルヒンは競技者表彰初年度だったこともあって111票中108票と97.3%だったが、王は221票中206票の93.2%だった。2位の与那嶺要も168票で当選。3位以下10位まで記すと、(3)田宮謙次郎153票、(4)石井藤吉郎152票、(5)杉浦忠124票、(6)衣笠祥雄119票、(7)藤田元司113票、(8)近藤貞雄101票、(9)大杉勝男95票、(10)西村正夫77票。ちなみに、報知新聞入社21年目、運動記者クラブ入りから15年目となった私も、この年から投票資格を得ました。ただ、王に入れたことは間違いないですが、まだ殿堂への意識が今のように高くなく、他には誰に入れたのか覚えていない。

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2016年9月 3日 (土)

【巨人コラム・Gペン】犠打に歴史あり

57c68fc1tg2 メジャーの試合を毎日チェックしていると、日本プロ野球では滅多に見られない事象が起こる。

 8月19日のマリナーズ・ブルワーズ戦では6回1死一塁で代打出場した青木宣親外野手が、「三塁手が後ろに(守って)いたので自分も生きようと思った」。三塁前のバントで走者を二塁に進め当初“犠打”が記録されたが、試合後マリナーズのサービス監督も「あれはアオキが安打を狙ったバント」と話したこともあって犠打から、内野ゴロとして打数1が付いた。

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2016年8月27日 (土)

野球殿堂記者投票への考察=第36回(1993年度) 稲尾、村山両エース殿堂入り。特別表彰は史上初の当選者なし

1 前年2票足らずに資格初年度の当選を逃した稲尾和久が212票中201票獲得。得票率94・8%は歴代3位の高率。2位は前年から50票増やした村山実が178票で選出された。村山と1票差だった米田哲也はオリックスの投手コーチ就任で資格を失った。3位以下10位までは、(4)田宮謙次郎147票、(4)石井藤吉郎146票、(5)与那嶺要115票、(6)近藤貞雄107票、(7)江夏豊98票、(8)西村正夫93票、(9)衣笠祥雄91票、(10)大杉勝男82票。幹事会によりこの年から資格を得た計8人の中で10位までに入ったのは、与那嶺、衣笠、大杉の3人もいた。日本プロ野球最高打率のレロン・リーは8票。現役監督OKだった1966年当時、西鉄監督だった中西太の33歳に次ぐ、37歳という年少候補になった江川卓はわずか1票だけ。逆に1票ということでメディアでは「誰が入れたのだろう」と話題になった。スポーツ報知では東西の有資格記者25人に聞き取り調査。誰も投票していない、と書いている。

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2016年8月21日 (日)

野球殿堂記者投票への考察=第35回(1992年度)豊田泰光のライバル、名遊撃手2人が殿堂入り

57b588bftg1 現役時代は西鉄ライオンズの3連覇に貢献した勝負強いバッティング、野球評論家として辛口ながら選手目線で優しさのある、そして野球界の将来を考えた背広組への手厳しいコメントで、硬派 野球ファンの人気を集めていた豊田泰光が8月14日に81歳で亡くなった。ほとんどのスポーツ紙に掲載されていたのが、現役時代の遊撃の守備ぶりを伝えた野球評論家・小西得郎が1950年代半ばに、巨人・広岡達朗、阪神・吉田義男、豊田という当時の球界を代表する3人の遊撃手を評した「吉田は絹糸、広岡は麻糸、豊田は木綿糸」というコメント。打球を素早く処理する華麗さの吉田、爽やかなプレーの広岡、武骨なまでに泥臭い豊田というわけだ。ただ、打撃成績では豊田、吉田、広岡の順だった、そんなライバル広岡と吉田が先に野球殿堂入りした(豊田は2006年)。1月22日に発表された競技者投票部門、当選必要数は162票だったが、(1)広岡達朗174票、(2)坪内道則172票、(3)吉田義男166票。1948年にプロ野球初の1000試合出場と1000安打を達成した坪内とともに選出された。

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2016年8月11日 (木)

イチローへの、もう一つの期待(第840回)

57ab4341tg4 マリナーズのイチローが通算3000安打を達成したデンバーでのデーゲームの気温は28度。振り返ってみると、メジャー初安打は零度近い極寒のシアトルだった。オリックスからマリナーズにポスティング・システムで渡米した2001年4月2日。マリナーズの本拠セーフコ・フィールドでのアスレチックスとの開幕戦に4万5991人の超満員のファンが詰めかけていた。そして誰もが注目していたのが日本プロ野球のスーパースター、オリックスで7年連続首位打者となったイチロー。彼は「1番・右翼」に名前を連ねていた。だが、前年20勝6敗の右腕ハドソンの低めに集める投球には手こずった。第1打席が二ゴロ、第2打席が一ゴロ、第3打席が空振り三振。7回、投手がマシューズに代わったのが幸いした。2ボール1ストライク後の4球目のやや外角高めの直球をたたいた。投手のグラブをかすめて中前へ。現地の午後9時41分。このヒットをきっかけにチームは同点に追いつき、8回無死一塁からの送りバントが内野安打となってマルチ安打デビューだった。

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2016年8月 7日 (日)

野球殿堂記者投票への考察=第34回(1991年度)桑田武急死で扱い極小に。理由はそれ以外にも?

19910123f0ehm010000000 1991年の競技者表彰投票開票の1月22日。1959年に中大から大洋ホエールズ入り、いきなり31本塁打してタイトルを獲得し、新人王にも輝いた昭和30年代のプロ野球を代表するスラッガー、桑田武が21日にクモ膜下出血で急死したことが明らかになった。黒い交際もあってか、1970年限りで球界から身を引いていた。54歳の死に球界関係者の多くが驚きのコメントを残していたが、通夜に訪れた野球関係者は少なかったという。23日付けのスポーツ各紙の1面は1960年ホエールズ日本一の主砲で、川崎球場のファンを熱狂させた桑田一色だった。その結果、必然的に野球殿堂のニュースは扱いが小さくなった。なお、通算223本塁打した桑田は1度も野球殿堂候補者に入らなかった。

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2016年7月28日 (木)

野球殿堂記者投票への考察=第33回(1990年度)「喝!」の張本勲4年目で殿堂入り。そして、島岡が候補に

57971676tg2 1990年の競技者表彰投票では真田重蔵が184票、張本勲が169票を得て殿堂入りした。真田は東京、阪急、近鉄で投手コーチを務めていたことで時間がかかったが、前年から56票伸ばした。和歌山・海草中(現向陽高)では1939年が三塁手、40年はエースとして夏の甲子園連覇。41年は文部省通達で大会中止。文部省主催の大会となった42年は年齢制限で出場できなかったが、当時秋に強豪校を集めて行われた神宮大会では4連覇を果たした。翌年、朝日軍に入団し13勝。戦争で2年間のブランクがありながら、1950年松竹ロビンス時代の39勝を挙げて2リーグ制初年度に優勝をもたらすなど通算178勝。また、1963年には大阪・明星高の監督として夏の甲子園優勝に導くなどプロアマ両方で華々しい経歴。3学年上ながら、阪急、近鉄では旧制中学時代のライバル和歌山中(現桐蔭高)の西本幸雄に誘われて若手投手陣を指導して優勝も経験した。「私は本当に運の強い男。これも三塁から投手に転向させてくれた長谷川信義さんのおかげ。左膝の開くのを直すのにプレートの左前方に良く研いだクワを埋めてピッチング練習をやらされました」と往時を述懐していた。

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2016年7月22日 (金)

2部門でベストナイン選出OK“大谷ルール”設けては

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 日本ハムの大谷翔平投手(22)が20日の楽天戦(帯広)で自己最多タイの11本塁打を放った。オールスター戦の爆発に続いての活躍に、“投手の大谷"の打撃ではなく、一人の強打者として位置づけてもいい存在で、DHとしてもリーグ有数だ。

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蛭間 豊章

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