大地震と野球そして小林繁氏の死(第516回)
カリブ海に浮かぶハイチの大地震の被害は20万人以上とも言われ、被害規模は拡大する一方だ。昔と違って、各国の災害などはインターネットで瞬時に判る時代だからか、米大リーグ機構ではいち早く100万ドルの寄付を申し入れ、各球団も続いている。また、個人レベルでも、ハイチの隣国・ドミニカ共和国出身のレッドソックス、デービッド・オーティズ内野手が医薬品や食料品などの寄付を申し出て支援の輪は広がる一方だ。
米国の報道によると、現地入りして救援活動をしている米国のプロスポーツ関係者では、元NBAマイアミ・ヒートなどで活躍したアロンゾ・モーニングくらいだ。今回の救援活動の記事を読むにつけ、1972年12月23日に起こったニカラグアのマナグア大地震の支援に立ち上がり、物資を積んだ輸送機に同乗しながら墜落死したパイレーツのロベルト・クレメンテ外野手の行いには改めて頭が下がる思いだ。通算3000安打をマークしたプエルトリコ生まれの強肩好打のスーパースターの生き様が、その後のプロスポーツ選手のチャリティー活動に対する意識を、劇的に変えたのは間違いない。
大地震と米大リーグでは、1989年のワールドシリーズ第3戦の開始直前に起こったサンフランシスコ大地震が知られる。この被害もあってシリーズは10日間も延期した。アスレチックスの4連勝で終わったが、試合が間延びしたこともあって、全米視聴率は当時のシリーズ史上最低の16・4%。5年後の1994年、選手会ストライキでのワールドシリーズ中止、この2度の出来事が、ワールドシリーズ人気の低落の引き金になった(昨季は11・7%)と、されている。
一方、日本でプロ野球と大地震がリンクしたのは1995年1月17日に阪神・淡路大震災か。フジテレビ系列が16日に放映した「神戸新聞の7日間」は、生々しい実写場面を取り入れ、出演者の熱演もこちらに伝わってきた秀作だった。地元のオリックスは、2年連続首位打者となるイチローらが「頑張ろう神戸」を合い言葉にリーグ優勝を果たした。翌年は日本一まで駆け上がっていったが、市内が落ち着き始めるとチームも長い低迷に入っていった。今一度、あの当時のチームの熱気を呼び戻して欲しいものである。
もう一つ、日本プロ野球の歴史を変えた大地震に1923年9月1日の関東大震災がある。こちらは、日本球界初の給料をもらってプレーする史上初のプロ野球チーム“日本運動協会”が軌道に乗り始めた3年目に起こり、すべてを水の泡にしてしまった。学生野球が人気を集め始めたため、その弊害を考え野球の健全なる発展を目指してスタートした組織。後に野球殿堂入りする飛田忠順、橋戸信、押川清、河野安通志、島田善介、中沢不二雄、内村祐之、中野武二ら当時の球界のそうそうたる論客が発起人となって、プロ球団の組織とともに、球場経営を念頭に置いていた。
1923年は全国から集まった若手選手らが力をつけてきた時期だったが、大震災で球場は接収され、野球どころではなくなった首脳陣は解散を発表。阪急電鉄の創始者・小林一三氏が買い取って宝塚協会として延命したが1929年に再び解散した。もし、関東大震災がなければ、日本プロ野球の歴史も変わっていたかもしれない。
ここまでは17日午前中に書き終えていたが、午後になって巨人、阪神で活躍した小林繁氏の急死のニュースが飛び込んできた。サイドスローから気迫あふれるピッチングで1970年代後半のプロ野球を盛り上げてくれた一人だ。江川卓氏との阪神へのトレードが決まったのは1979年1月31日の深夜。私事で恐縮だが、当日の3面を飾ったのは私が地元紙・下野新聞に出向いて調べた作新学院時代の脅威の数字を並べた2度の完全試合含む9度のノーヒットノーランなどを記した江川のアマチュア時代の全成績だった。ところが、小林氏とのトレードが急遽決まったため、最終版の3面は差し替えとなった。そんな思い出もあるが、“記録室”では何度も原稿の題材にさせてもらった。私より1歳上、若すぎる死去に、ご冥福を祈るばかりだ。




びっくりしたというかショック!!2009年色々な方が亡くなった。早く終わればいいと思った。そして2010年新たな1年が始まり心機一転いい年のなればいいと思っていた矢先。あえて小林繁投手と呼びたい。私が物心ついて何とか印象に残っているのは長嶋茂雄氏の引退かなって言う程度。本当にプロ野球を見始めたのは長嶋巨人1年目。その時にファンになったのが小林繁投手とデーブジョンソンだった。私の憧れだったし、明石家さんまさんばりによく草野球で真似ばかりしていたし、真似した時は絶対負けたくなかった。そして江川事件。思春期と重なって兄弟喧嘩から小林投手とともに阪神に移籍した。それ以来虎キチである。その年対巨人8勝、22勝、沢村賞、そしてタイガースでもエースへ。現役引退の時、「若手にチャンスを。いつかタイガースの監督をしたい」とコメントされたのを今でも覚えている。いつかタイガースの投手コーチ、監督をやって頂きたかった。私の中では背番号19は小林投手。私の中のNo.1投手である。早過ぎる死。とっても残念でならない。ご冥福をお祈りしたい。
投稿: 山本常典 | 2010年1月18日 (月) 02:20
小林繁さんの急逝。ご冥福をお祈り申し上げます。
小林さんは長島巨人第1期のエースでした。私の記憶では小林さんと加藤初さんと新浦さんが当時の巨人の3本柱でした。ライトさんや浅野さんもトレードで、巨人に来ましたが、球界全体ではパリーグが阪急黄金期でセリーグは広島の黄金期がスタートした段階でした。それまでの9連覇の巨人の侍のおじさんたちが老兵になっていく中、支えてくれていたのが生え抜きでは小林さんでした。われわれの世代では代打で驚異的な打率を誇りコンコルドといわれた独特の打法で人気があったのが淡口さんと小林さんの独特のサブマリン投法(クロスファイアー)とが人気を二分していました。
長島巨人第1期前半は投手陣は小林さんたちが中心だったのです。残されたビデオなどの彼の言動でもわかりますが、物事に動じないすばらしい精神力の持ち主でした。阪神が江川さんの交換要員に小林さんを望んだのも、そのプロとしての意志の強さにあつたのだろうと思います。「僕は請われていくのだら、同情で見てほしくない。選手としてのこれからで評価してください」というあの会見でのお言葉が今でも耳に残ります。個人的には江川さんの空白の一日事件というのは一人の青年の巨人入団志望にいろいろな人の思惑が絡んだ事件だと思っています。周囲の大人がもう少し配慮していたらおき得なかった事件ですし、今同じことがおきればマスコミは逆に人権侵害問題として取り上げるでしょう。間違いなく言えるのは、そういう周囲の喧騒の中プロとしての信念をつらぬいた小林繁氏の姿勢があまりにも見事だったということ。この事件の裏側にある汚さを、見事に漂白してくれました。彼に救われたのは球界関係者だけではなかったと思います。
コーチとしてもプロ入団当初の岩隈投手などの指導にあたられており、これから小林さんの蒔いた種が花開くかというときだったので、ご逝去が残念でなりません。小林さんの活躍をもう少し見たかったです。
投稿: Kファクトリー | 2010年1月18日 (月) 10:19