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2016年12月 3日 (土)

野球殿堂記者投票への考察=第47回(2003年度)5人選出も選手時代の実績少なく地味な野球殿堂表彰

2 1月10日に発表された野球殿堂では競技者、特別で合計5人が選出された。しかし、選手時代の活躍が認められた方は一人もおらず、地味な発表となった。また、当日はフリーエージェントを使ってヤンキース入りした松井秀喜が、入団発表のためニューヨーク入り。各スポーツ紙ともそれを大きく取りあげて、報知新聞は競技者表彰の得票数の表を紙面の都合で掲載しなかった。他紙をチェックした結果、この年の殿堂入りに必要な票数は207票だった。1位上田利治225票、2位関根潤三212票が当選。次いで3位バース199票、4位仰木彬194票、5位門田博光138票、6位村田兆治131票、7位津田恒実130票、8位権藤博118票となっていた。

 1月10日に発表された野球殿堂では競技者、特別で合計5人が選出された。しかし、選手時代の活躍が認められた方は一人もおらず、地味な発表となった。また、当日はフリーエージェントを使ってヤンキース入りした松井秀喜が、入団発表のためニューヨーク入り。各スポーツ紙ともそれを大きく取りあげて、報知新聞は競技者表彰の得票数の表を紙面の都合で掲載しなかった。他紙をチェックした結果、この年の殿堂入りに必要な票数は207票だった。1位上田利治225票、2位関根潤三212票が当選。次いで3位バース199票、4位仰木彬194票、5位門田博光138票、6位村田兆治131票、7位津田恒実130票、8位権藤博118票となっていた。

 上田利治は関大時代に村山実とバッテリーを組み1959年に広島カープ入り。ただし実働3年間で121試合の出場、本塁打はわずか2本だったが、1962年からカープのコーチに就任。71年から阪急ブレーブスのコーチになり、74年から監督に就任。75年に広島東洋カープを破ってチーム初の日本一になると、76、77年には過去5度も土をつけられていた読売ジャイアンツを倒し、パ・リーグでは西鉄ライオンズ以来となる3年連続して日本シリーズを制覇した。1999年日本ハムファイターズ監督を辞めるまで通算2574試合に采配を振るい1322勝1136敗116分けだった。ブレーブスの前任監督、西本幸雄が育てた山田久志、福本豊、加藤秀司を中心に、山口高志入団を契機に黄金時代を築いた名将でもある。

 関根潤三は現役時代、投手から外野手に転向。投手で65勝94敗。打撃成績は1417試合の出場で1137安打。1962年には打率3割1分でリーグ8位に食い込んだ。1952年に投手で、1959年から都合4度外野手としてもオールスター戦出場。両方でオールスター戦に出場した唯一の選手だった。引退後は6年間、大洋ホエールズとヤクルトスワローズで指揮を執るも最高勝率は5割が1度あるだけ通算勝率は4割4分8厘(上田は5割3分8厘)。テレビ解説者として人気を博していた。

 この年、私はこの2人に投票していない。門田博光、村田兆治に入れた記憶がある。ちなみにバースは実働6年間だけ、原則的に実働10年満たない選手には入れないポリシーがあるので入れていない。いつもいうように私の競技者表彰の基準は「グラウンドで長く活躍した選手」だからである。

 特別表彰には、1970年から広島東洋カープのオーナーを務め、メジャーの教育リーグへの選手派遣、外国人監督の起用、球界で初めてトレーナーを海外に派遣、そして1990年にドミニカ共和国に「カープ・ベースボール・アカデミー」を設立するなど斬新な手法で球団経営をした松田耕平。新世紀特別表彰では、1872年に渡来し第一大学区第一番中学(翌年開成中学→東大の前身)で英語や数学を教える傍ら、生徒に野球を教えたホーレス・ウィルソン。ウィルソンの生い立ちにスポットを当てた“明治五年のプレーボール"著者・佐山和夫は「遅すぎた感は否めないが、ともかくも入るのだから、喜ばなければ。少なくとも、私たちが恩知らずの国民でなかったことを証明できただけでもよかった。これを機に、日本におけるベースボールの歴史に対する関心が深まればうれしい」。

 そして、軟式野球のボールを考案した鈴鹿栄が選出された。鈴鹿は1916年に京都市の小学校教員グループが組織した京都少年野球研究会で、ゴム靴の裏の滑り止めの凸凹からヒントを得て作成。1918年に軟式ボールの原型「少年野球用ゴム球 実用新案第46870 大正7年10月16日登録」を考案。1922年には大人用のボールも製品化され、昔に比べ下火になったとはいえ野球ブームを支えた人物だった。

 【注】敬称略。写真は1977年の日本シリーズで読売ジャイアンツを破って3年連続日本一となり、胴上げされる阪急ブレーブスの上田利治監督

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蛭間 豊章

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