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2016年12月21日 (水)

野球殿堂記者投票への考察=第50回(2006年度の1)門田博光、山田久志のライバル同士に、個人的に思い出多い高木守道が競技者表彰で殿堂入り

1 1月10日に発表された殿堂入り。競技者表彰では門田博光が238票を集め1位、高木守道が230票で2位、山田久志が223票と前年の次点からの3人が一気に票を伸ばして選出された。以下、4位梶本隆夫206票、5位権藤博189票、6位星野仙一154票、7位大沢啓二132票、8位外木場義郎116票、9位田淵幸一95票、10位村上雅則82票と続いた。この年は東京中日スポーツだけが、高木が選出されたこともあってか票を得た32人全員が紙面に掲載していた。

 前年、殿堂入りした森祇晶が電話取材で「何で(殿堂に)入っていないのか」と取材記者に聞き返したのが門田。身長は170センチながらパワフルなバッティングで、通算567本塁打、安打も2566本たたき出した。受賞が決まった時、門田は糖尿病、脳梗塞で闘病中だった。「感激しています。最高の賞をいただけることで舞いあがっています」と喜びを表現した。そして「まずは体を健康に戻すこと。後進の指導に当たるには体力がいります」と話したが、その後体調が回復し健在だ。現役生活後半はDHがほとんどだったが、アキレス腱を切るまでは強肩外野手としても名を馳せていた。打点王に輝いた2年目の1971年は、送球で刺した補殺が両リーグ最多の15もあった。アキレス腱断裂までの1971年から77年までの7年間で“補殺王"は3度、10回あれば強肩と言われるがこの間5度の2ケタ補殺。簑田浩二、イチローのような反動を付けて投げる低い送球ではなく、助走無しでもボールが加速するような中日・森徹、西武のタイロンのようなタイプだった。また、1977年には312刺殺という守備範囲の広さも見せた。この年、出版されたプロ野球40年を語る雑誌で殿堂入りの水原茂は、現役4番にまだプレーしていた王貞治、張本勲を退けて門田を4番に据えたのも印象深い。

2 下手投げ投手としては最多勝となる通算284勝を挙げた山田は現役前半は速球で押し、3年間の低迷期を挟んで今度はシンカーを武器にして白星を積み上げた。1969年富士鉄釜石(現新日鉄釜石)から都市対抗出場後に阪急ブレーブスに入団。1年目1敗、翌年も負け続けデビュー7連敗した後、初勝利を挙げた。デビュー7連敗以上して100勝挙げた投手はいないだけに、その後4度の20勝を含め17年連続2ケタ勝利は見事だった。中でも1976年は26勝。その後26勝挙げた投手は出ていないし、そのシーズン5セーブもマークしている。1971年日本シリーズ第3戦で完封目前の9回2死一、三塁から読売ジャイアンツの王貞治に逆転サヨナラ3ランを浴びたのは有名だったが、1977年のシリーズでは2勝にタイムリー二塁打も放ってMVPに輝いている。通算6勝9敗で負け越しているが、9敗中4度は完投しながらの黒星。シリーズ8完投は11勝した稲尾和久の9完投に次ぐ歴代2位だった。その一方でオールスター戦は防御率3・30ながら抜群の勝ち運で7勝0敗。1971年の日米野球では、連戦連勝だったボルティモア・オリオールズ相手に4イニング無失点と完投勝利をマークするなど、メジャーリーガーを驚かせたこともあった。門田、山田は同じ1948年生まれ(門田が2月生まれで学年は1年上)。同じ時代をプレーしただけに対戦は328度もあった。1年早くプロ入りしたこともあり、1970年4月14日の初対戦から4打席連続三振、四球を挟んで三振、初安打の後も三振と最初の8打席で6個の三振を山田が奪った。しかし、2年目からは門田がカモにしていきなり5本塁打と量産。結局19年間で打率3割2分3厘で26本の本塁打を奪った。なお、同じ対決の最多本塁打には野村克也VS米田哲也の27本が最多のようだ。

3 高木は指導者としては結果を残せなかったが、名二塁手としての守備とともに三拍子そろったプレーヤーだった。盗塁王3回、二塁手最多のベストナイン7回受賞。初打席本塁打に4打席連続アーチも記録した。守備では1971、1972年と二遊間コンビを組んだバート・シャーリー遊撃手との絶妙な併殺プレーを今でも思い出に残っている。そして、個人的に忘れようとしても忘れられないのが1974年10月11日のヤクルトスワローズ戦の一打だ。首位の中日ドラゴンズ、2位読売ジャイアンツのデッドヒート。ジャイアンツはこの日試合はなく、神宮球場にはジャイアンツ応援のファンも詰めかけ4万5000人でスタンドが埋まる中、当時ドラゴンズファンだった私は三塁側スタンドにいた。3-2とリードしたスワローズは松岡弘―浅野啓司と先発二本柱の継投。翌日のジャイアンツ戦を控えていることもあって、ドラゴンズファンから「そんなにジャイアンツに勝たせたいのか」のヤジが飛ぶほどだった。試合はそのまま9回2死三塁。絶体絶命のピンチで打席に立った高木が初球を三遊間を抜く会心の同点タイムリー。私も含めて三塁側に陣どっていた竜ファンは泣きながら肩を組み合った。もし負けていれば翌日の大洋ホエールズとのダブルヘッダーに連勝しても翌日のジャイアンツ次第で優勝決定は13日の直接対決ダブルヘッダーに持ち越されるところだった。翌日連勝してドラゴンズが20年ぶり優勝。同日、長嶋茂雄の引退発表。そして雨で1日流れた14日に長嶋涙の引退式。この一連の流れも高木の同点タイムリーがなければどうなっていたのだろうか。

 【注】敬称略。写真は1981年7月に当時の月間最多タイ記録の15本塁打を放った時の門田博光。1977年日本シリーズ第1戦で完投勝利をマークした山田久志。1966年、阪神戦での高木守道の二塁守備。

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蛭間 豊章

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