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2016年12月24日 (土)

野球殿堂記者投票への考察=第51回(2006年度の2)特別表彰には川島広守前コミッショナーと豊田泰光を選出。そして大和球士への思いを込めて

Photo_2 豊田泰光は守備が重要視された遊撃手像を大きく塗りかえた存在だった。西鉄ライオンズ時代は強打の遊撃手として君臨。1956年にMVPに輝くなど4度出場した日本シリーズでの勝負強さが特筆されており、通算打率3割6分2厘は川上哲治の3割6分5厘に次ぐ歴代2位(80打数以上)、また9度出場したオールスター戦でも3割2分1厘を残していた。ただ、レギュラーシーズンはライオンズ時代こそ1956年に日本人遊撃手としては初の首位打者に輝き通算打率2割8分3厘、193本塁打と当時としては高かった数字を残した。1963年国鉄スワローズ移籍後は1年目こそ打率2割9分2厘、20本塁打、74打点をマークしたものの、じり貧でスワローズ7年間(その後のサンケイアトムズ時代含む)では2割6分、7年間で70本塁打に終わっていた。そのため、選手だけの成績での殿堂入りは難しく、初めて競技者表彰の資格を得た1978年がわずか1票だけなど、わずか5年で投票候補から消えていたのだ。それが近鉄バファローズのコーチを辞めてから評論家活動。特に1990年代の球界のフリーエージェント制導入や、屋根付き球場増設。そして、野茂英雄のドジャース移籍に端を発したメジャー入り選手の増加などの諸問題に、鋭く斬り込む評論で再び脚光を浴びたことが殿堂入りにつながり、「野球ではたいしたことなかったということかな」と笑わせていた。

 川島広守は警察庁警察局長、警務局長などを経て1973年に田中角栄内閣の内閣官房副長官などを務め、1979年鉄建公団総裁。62歳となった1984年にセ・リーグ会長、1998年にはプロ野球コミッショナーに就任した。プロ野球に20年間尽くし、その間プロ・アマ協調体制を推進させたことが評価された。

 特別表彰はこの2人の選出だけに終わった。ここで選に漏れていたことで、当時の私が書いたブログ「故大和球士氏の殿堂入りを願う」を抜粋させていただく。

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 “野球の語り部"という言葉で思い出すのが、戦前戦後を通じてプロ野球を見守ってきた故大和球士(本名・安藤教雄)氏だ。早稲田大学から都新聞(後の東京新聞)に入社。社会部記者から運動部に移ると当時の世相を反映して「大和魂」をもじって「大和球士(やまときゅうし)」のペンネームで、当時スタートしたばかりで人気の無かった職業野球の記事を書きまくった。キャッチフレーズを編み出すのが上手で“弾丸ライナー"の川上哲治、“七色の魔球"の若林忠志、“塀際の魔術師"の平山菊二などは後世に伝えられている。

 戦後はフリーになって報知新聞だけではなく野球雑誌、そしてラジオ解説と、野球経験のない中でファンを熱狂させた。私のバイブルでもある「プロ野球三国志」は、その後亡くなった女流作家の栗本薫さん(評論では中島梓)が、自らのホームページ上のコラムで「大和球士さんのプロ野球三国志なんて本に熱狂していた高校時代」と書き込んでいた。

 長く野球殿堂の特別表彰委員会の委員長を長く務めていた。1992年に亡くなった後、特別表彰の候補として名前が挙がったが、規定の得票数を獲得できないまま候補から抹消されたという。昨年は放送という部門での語り部である志村正順氏が殿堂入りした。米国では「ベースボール・ヒストリアン(野球歴史家)」という肩書がある。日本版「野球歴史家」でもあった大和さんの功績を風化させないためにも、特別表彰委員会で改めて殿堂入りを協議して欲しいものである。

 ※その後もそのような動きはない。

 【注】敬称略。写真は1956年日本シリーズMVPに輝いた豊田泰光と大和球士の名著書「プロ野球三国志」の初版本

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蛭間 豊章

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