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2017年1月 7日 (土)

野球殿堂記者投票への考察=第53回(2008年度)殿堂規約を大幅改正。メジャー並に引退5年後無条件候補に。堀内恒夫、山本浩二は納得。びっくりした嶋清一の殿堂入り

Horiuchi 2007年6月11日、野球殿堂が大改革した。従来の競技者表彰が2部門に分かれた。これまでは現役を引退した競技者(選手、監督、コーチ、審判員)を対象に引退後5年を経過した後、11年間を有資格としていた。選手引退後5年未満で指導者になると、資格を得るのが遅れる。さらにその期間が長くなった場合、選手時代の印象が薄れるという批判が根強かった。それを解消するために、選手を対象とする(選手引退後、5年を経て15年間を有資格とする)「プレーヤー表彰」に加えて、プロの監督、コーチ、審判を対象とする「エキスパート表彰」を新設。従来の特別表彰対象者との有資格者で、選手引退後21年以上経過している人物も含まれることになった。この時点で特別表彰は選手、コーチ、監督、審判員などすべてアマチュア関係者+プロアマの背広組が対象者となった。また、初年度3%未満の得票率の場合は、次年度以降の候補者資格を失うことも加えられた。

  これを受けて11月27日、2008年殿堂入りの「プレーヤー」候補30人、「エキスパート」候補10人の計40人の名前を初めて公表した。

 中日ドラゴンズの落合博満、読売ジャイアンツの原辰徳の両現役監督も候補者になって注目度は飛躍的にアップした。2008年1月12日、報知新聞は野球殿堂を伝えるのに5面すべてと4面の半分近くを割いて報道した。「プレーヤー」は当選への必要得票数231票の中、1山本浩二284票、2堀内恒夫239票が当選。以下3位田淵幸一211票、4位若松勉205票、5位落合博満194票、6位東尾修130票、7位大野豊73票、8位加藤英司65票、9位ブーマー48、10位北別府学46票。初年度3%以下の牛島和彦、宇野勝、鹿取義隆、篠塚和典、石嶺和彦、駒田徳広、星野伸之、辻発彦、槙原寛己、池山隆寛が翌年からの資格を失った。

Yamamoto 山本、堀内も前年競技者投票候補に復帰したばかり。梶本隆夫が殿堂入りした前年は次点以下の2位権藤博、3位星野仙一、4位外木場義郎がそろって「エキスパート」に回ったのも幸いした。山本のデビュー6年間は3割、30本塁打、100打点をクリア出来なかったが、7年目以降はタイトルの常連となり、チームを5度のリーグ優勝に導いた。殿堂発表の時に話したエピソードは、1975年8月7日の試合の事だった。試合前に腰を痛め、欠場を古葉竹識監督に申し入れたが断られた。8回、ゲイル・ホプキンスの三塁打で同点に追いつきなおも1死三塁で、打席に向かおうとすると監督から「スクイズだ」と耳打ちされたが、頭に血が上ってサイン無視で初球を右翼席に決勝2ランを放ったという。5度出場した日本シリーズは35試合で打率2割5分、7本塁打と今ひとつの内容だったが、オールスター戦は73年から14年連続出場し3割1分7厘、14本塁打。2打席連続アーチ2度は彼ただ一人、私が唯一オールスター戦の現場取材した1979年第3戦では右翼席にサヨナラアーチ。三塁コーチャーを務めていた長嶋茂雄巨人監督と一緒にホームインしたのを昨日のように覚えている。

 堀内は1983年に現役引退したこともあって、この年が競技者投票での有資格最終年だった。1966年にデビュー13連勝や防御率1位という1年目から13年連続2ケタ勝利。1972年には26勝、312イニング投げ防御率2.91で、王貞治、長嶋茂雄がほぼ独占していたジャイアンツのMVPの歴史にストップをかけた。山本とは逆にオールスター戦では平松政次、江夏豊がいたこともあって先発はわずか2度だけで勝敗0、防御率1.44ながら、1972年第2戦での福本豊の本盗阻止の時の投手だったことを覚えているくらいで強烈な印象はないが、ジャイアンツ9連覇の2年目から出続けた日本シリーズは、稲尾和久と並ぶタイ記録の11勝(5敗)。中でも1972年、73年に2勝ずつ挙げて連続MVPに輝き、レギュラーシーズンで1試合3発放つなど通算21本塁打を放ったバッティングも絶好調でその2年間の打撃成績は2本塁打含む13打数5安打6打点とバットでも大活躍した。また、現役当時に読売新聞社が度々招聘したメジャーのチームにも多く登板。1971年のボルティモア・オリオールズ相手にはジャイアンツが1勝も出来なかったが、パット・ドブソンがノーヒッターをやった第7戦、延長11回に決勝の2点を許した第14戦はともに0-2での完投負け。このシリーズ、日本チーム164イニングのうち一人で47イニングも投げきったが、この登板も翌年の飛躍につながったようだ。最後に報知に掲載された独占手記を引用すると「プロ入りして2年目に野球をやめようと思った、椎間板ヘルニアで再起不能と言われ、手術しても成功率は20%だった。そこで、接骨医の吉田増蔵先生と話し合って、曲がったまま腰を固めることになった。コルセットの代わりに、腹筋と背筋を1日300回ずつ。それを4、5年続けた。あの時やめずに良かった。殿堂は野球を始めてプロ野球に入ってからも夢物語だった」と記した。

 山本は「良き指導者、良きライバルがいたからこそ殿堂入り出来た」と話したが1歳違いの両選手の対戦成績は232回もあり204打数62安打の打率3割4厘、21本塁打と山本がやや分があった。内容を細かく見ると、山本がタイトルを獲得した1975年を境に前後で分けると2割6分7厘から3割5分2厘と対戦成績が逆転。1983年最後の対決も本塁打だった。なお、2人とも守備も素晴らしくゴールデン・グラブ受賞回数は山本10回(外野手)、堀内も7回受賞。1972年より前にスタートしていれば、特に堀内はもっと多く受賞していたはずだ。

 健在の殿堂入り選手と各社幹事が選ぶ初の「エキスパート」は当選必要票数32に達するものはいなかった。1位青田昇23票、2位星野仙一15票、3位江藤慎一、権藤博各13票、5位外木場義郎12票、6位皆川睦雄11票、7位榎本喜八10票、8位大沢啓二9票、9位富沢宏哉6票、10位村上雅則3票だった。

 特別表彰の嶋清一に関しては、当時の私のブログをお読みください。そのときの特別表彰候補者の得票数も書いております。

 http://weblog.hochi.co.jp/hiruma/2008/01/post-df57.html

【注】敬称略。写真は背番号21だったデビュー1年目の堀内恒夫、広島東洋カープ初優勝に導いた1975年、脚力も兼ね備えていた山本浩二。

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