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2017年1月12日 (木)

野球殿堂記者投票への考察=第54回(2009年度)青田昇は45年目でエキスパート初の殿堂入り。プレーヤーは若松勉当選、落合博満は1票足らずに落選

Aota_2 2009年1月14日に行われた殿堂入りの発表。プレーヤーでは前年4位だった若松勉が288票でトップ当選。山本浩二、堀内恒夫の当選組に加え、3位だった田淵幸一が資格を失ってエキスパートに回ったことで一気に83票も伸ばした。2位には落合博満が33票伸ばしたものの当選必要数228票に1票足らない227票だった。3位以下は3位東尾修217票、4位加藤英司136票、前年見落としていたのか津田恒美が再び候補に名を連ね5位で111票、6位大野豊109票、7位北別府学108票、8位ブーマー91票、9位秋山幸二46票、10位原辰徳36票となっている。2年目となったエキスパート表彰で初の当選者が出た。前年は当選票数に9票も足らなかった青田昇、8票増やして31票。この年は投票総数46しかないのに棄権が9票、無効が1票も出たことで当選必要数が前年の32票から27票にダウン。それが当選ラインを超えた理由でもあった。2位は江藤慎一23票、3位皆川睦雄12票、4位星野仙一10票、5位権藤博、外木場義郎各9票、7位土橋正幸5票、8位平松政次4票、9位田淵幸一2票、10位谷沢健一0票だった。

 青田昇が競技者表彰候補に初めて名を連ねたのは1965年だった。あれから45年と時間がかかった。最終ノミネートは1988年、144票まで伸ばしたものの24票足らなかった。個人的には、1980年に殿堂入りした小鶴誠と同じような評価をしても良かった選手だと思う。戦争のブランクが2度ありながら本塁打王5度、打点王2度、首位打者1度獲得。川上哲治174センチ、大下弘、藤村富美男がともに173センチだった中、170センチの体ながら1956年に通算本塁打でトップに立ち、通算265本は1964年途中までプロ野球記録として君臨していた。外野守備も群を抜いており、1948年の391刺殺は日本プロ野球の記録として今も破られておらず、1947年から4年連続300刺殺は2002年殿堂入りの福本豊の5年連続に次ぐ歴代2位だ。また、1950年には29盗塁でトリプルスリーをあと一歩で逃すなど走攻守三拍子そろった選手。監督としては結果を残せなかったが、コーチとしては1962年阪神タイガースのセ・リーグ初優勝、1967年阪急ブレーブスの初優勝にも大きな役割を果たした。報知新聞の評論家時代の“ズバリ ズバリ ズバリ"は、厳しい中にも暖かい視点があって、私も楽しみであり、勉強させてもらった。1997年に心不全で72歳で死去。そのとき、ジャイアンツの先輩で1980年に殿堂入りしていた千葉茂は「上にへつらったり、下の者をさげすんだりすることのない公平な男で人間的な温かみは人一倍だった。生前に野球殿堂入りさせてやりたかった…」。それから12年後の殿堂入り発表の日、満子夫人は「主人の下に行くまで(殿堂入りの)報告できないんじゃないかと思っていましたが、この日を迎えることができました。青田を愛し、信じて応援してくれた人たちのお陰です」と感無量の面持ちだった。

Wakamatsu_2 若松勉は青田より2センチ低い168センチ。団塊の世代ではより小兵だったが、首位打者2度を初め、通算5000打数以上ではプロ野球最高の打率3割1分9厘を残した。シュアなバッティングで1978年にはヤクルトスワローズ初優勝の立役者となってMVPを受賞。監督としても2001年スワローズを日本一に導いた。体の小ささにドラフト3位で指名されながらプロ入りを迷った話は有名。1970年11月25日付けの報知新聞の片隅に「若松、ヤクルト入団断る」とのわずか7行の原稿が掲載。1999年殿堂入りとなる中西太ヘッドコーチ直々の要請にも「プロでやるには体力的に自信がない」と正式に断った、とあった。しかし、最終的に要請に応じ入団。中西太との二人三脚の厳しい練習で大打者の道を歩んでいった。現役を引退した直後の1989年、報知新聞の「悪友、親友、こう言う録」でこんなコメントを残している。「(1970年)全国電電公社対抗大会でボクが5ホーマーしたのを見ていた中西さんが、3位に指名していたので責任があったのでしょう。いろんな練習を課せられました。胴に砂を入れたチューブを巻かされ、相撲のシコを踏まされた。下半身強化のためにね。両ひざを地面につけてバットを振った。インサイドからバットを出す練習。右手にグラブをはめ、ボールをたたくこともした。中西さんにとってボクをモルモットみたいなものだったのでしょう(笑い)」。また、こんなことも言っている。「オレはいつもカーブを待っていた。そこに速球が来ても、腰の回転ではじき返せる」。大打者と言われる打者が普通「速い球に合わせて待つ」の真逆。それもすべて中西の薫陶による鍛えた下半身の強さから来ているのがうかがえる。殿堂入り発表の時にも祝福に訪れた中西は「自分が殿堂入りした日よりもうれしい」。当の若松は「まさかという感じ。名誉なことで本当にうれしい。もう少し躰が大きかったら、横着したかも。体の大きい選手に負けたくなかった」と話した。

 特別表彰は日本ハムファイターズのオーナーとして30年間も球界に功績を残した大社義規。1981年初優勝では胴上げされ、次の胴上げのために作ったユニホームの背番号100が、現時点のファイターズ唯一の永久欠番となっている。ちなみに前身の東映フライヤーズ初優勝の1962年、大川博オーナーは背番号100のユニホームを身にまとってパレードに参加している。大社は2005年4月に死去。北海道に移転後の2006年、日本シリーズ優勝を見ないまま他界した。もう一人は旧制一高の野球部で活躍し、1972年に明治時代の野球のルーツをひもとく1冊となった「日本野球創世記」を発刊した君島一郎。この本も絶版となっているが、私はすぐ買って読み込んだのを覚えている。

 【注】敬称略。写真は、本塁打、打点の二冠王に輝いた1951年当時の青田昇と、入団当時ヤクルトアトムズだった時代の若松勉。

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蛭間 豊章

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