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2017年2月24日 (金)

【野球遺産第3回】4面の軟式野球場となったスタジアム セネタースの本拠・上井草球場の初期の名前は東京球場だった

 前回書いた武蔵野グリーンパーク野球場跡地を訪れた2月11日は、戦前の東京セネタースの本拠地、上井草球場の跡地にも出向いた。西武新宿線の上井草駅から歩いて5分ほど。こちらは杉並区民の憩いの場である杉並区立上井草スポーツセンターに生まれ変わっていた。軟式野球場は正方形で4面がとれる全面人工芝。野球だけでなくサッカーも出来る広さである。屋内には展示コーナーとして、上井草球場の思い出の写真が数点飾られている。

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 写真の2冊の図録は2003年に開催された特別展「上井草球場の軌跡」で作られたもので今回初めて購入することが出来た。東京セネタースの本拠地として完成、上井草球場の軌跡には当時のエースでもあった野口二郎さん、法政大学時代に当球場でプレーしたことのある関根潤三さんのインタビューなども掲載。もう1冊はスーパースターだった苅田久徳の珍しい写真が表紙となっておりともに内容が充実しており、このブログを書くに当たっても参考にさせていただいた。

 時代は1936年に舞い戻る。7球団がそろって誕生した職業野球連盟だったが、神宮球場は、プロ野球が使用できなかった時代。都内には他に大きなスタジアムがなく、記念すべき連盟結成大会は早稲田大学野球部の戸塚球場を使用も手狭だった。そこで貴族院議員・有馬頼寧が中心になって誕生した東京セネタースは、共同出資者だった西武鉄道が高田馬場から出ている沿線の上井草にあったテニスコートやトラックなどの競技場を移転させて、職業野球連盟悲願の都内での球場を建設することになった。

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 完成したのは同年8月。両翼100メートル、中堅119メートル。当時は上井草球場ではなく東京球場の名称だった。土盛りの外野席を含め収容人員は約3万人。8月29、30日に球場開きとして大阪タイガース、セネタース、阪急、大東京の4チームが集まり、東西対抗職業野球戦として球場開きとなった。読売新聞によると、初日が約1万人、2日目は1万5000人の観衆が集まった。セネタースは初戦の阪急相手に16-0、2日目のタイガース戦も3-2で連勝。「3番・二塁」でチームを代表する主軸の苅田久徳が2試合で4安打4打点の活躍で2連勝に導いた。ちなみに名古屋軍、名古屋金鯱軍、東京巨人軍3チームは遠征などで参加していない。

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 公式戦が初めて行われたのはそれから2か月以上経った11月3日から12日まで。総当たり戦の計21試合が行われ、大阪タイガースと名古屋がともに5勝1敗で優勝した。最高打率は後のミスター・タイガースの藤村富美男で12打数7安打の打率5割8分3厘。合計4本しか出なかった本塁打も1本放ち打点も最多の7点を叩きだした。また、日本プロ野球初の黒人選手である大東京のジミー・ボンナが15打数7安打していながら、あまりのふがいないピッチングで解雇につながり、日本での最後の試合となったのもこの上井草シリーズだった。

 この年の上井草球場の公式戦は21試合のみだったが、その直後の21日から3日間、中部地方に誕生した名古屋の中京軍、岐阜の東海軍による新日本専門野球連盟というプロ野球チームが東京遠征。セミプロの東京ユニオン軍を加えて計5試合が行われている。

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 また、この年セネタースのオーナー・有馬頼寧が洲崎球場(プロ野球初年度に完成した球場)を訪れた際に読売新聞に寄稿した文章には、

 相撲は職業であっても国技であって神宮でやれるのに野球が職業であって神宮球場を使えないのはどういうことか。上井草といい、洲崎といい東京の東の端と西の端という不便な所で試合をせねばならないのは遺憾だ。早く後楽園の球場が(翌37年9月)竣工して6万だか7万だか入る球場が一日千秋の思いで待っている。

と記しており、上井草の交通の便の悪さをオーナー自ら指摘していた。

 1937年春は56試合消化したものの、後楽園球場完成の秋は1試合も行わず、38年春もわずか6試合。戦後は1950年パ・リーグ8試合消化しただけだった。ただし、武蔵野グリーンパークの項でも書いたように神宮が当時米軍に接収されていたため六大学野球も行った。その人気を見込んで最大4万7500人まで収容能力を拡張したものの、接収解除となった1952年にはそれもお役ご免となった。実は神宮球場以外の最後の試合は、1952年4月16日に急きょ開催され、雨で2日間も伸びた法政大・東京大の3回戦だ。当日の神宮では東都大学の開会式が予定されていたこともあって上井草球場での消化することになった。その日の観客数を報知新聞は1000人と報じている。

 洲崎球場は1936年秋季の優勝決定シリーズが行われたが、上井草球場はプロ野球の大きなイベントは東西対抗も含めて無し。六大学野球も最も盛り上がる早慶戦を1試合も行われることなくひっそりと硬式野球から身を引いた。その後は主に軟式野球開催のために1面増やしたりしていたが、1960年代になって取り壊し。地下に東京都の排水池を設置して、その上にグラウンドを造成。現在は周辺も含めて杉並区立上井草スポーツセンターとなった。

 【注】当時の写真はいずれも読売新聞から。球場完成を伝える8月25日付け。初の公式戦となった東京リーグ戦初日の盛況を伝える11月4日付けの紙面。なお、上井草球場の図録は、杉並区立郷土博物館で購入できます(電話03―3317-0841)。

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蛭間 豊章

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