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2017年2月19日 (日)

野球殿堂記者投票への考察=第59回(2014年度)球史を変えた野茂英雄、堂々の3人目の資格初年度殿堂入り

1 米時間1月9日(日本時間10日)に発表された米野球殿堂では、10年間現役でプレーして日本人選手で初めて候補に名を連ねた野茂英雄が6票に終わり、翌年からの候補者から姿を消した。メジャー通算123勝はいかにも少なかったが、それでも完全試合を含め通算219勝したケニー・ロジャースはわずか1票、通算319セーブを挙げたトッド・ジョーンズは0票だったことを考えれば、野茂の功績を感じていた記者がいた(全員日本人記者ではないだろう)ことの証明だ。2018年度、松井秀喜が再びメジャーの殿堂候補になる模様だが、この6票を超えるのかどうか私は注目している。

 さて、それから1週間後の17日に発表された日本の野球殿堂。野茂はプレーヤー表彰部門でスタルヒン、王貞治に次いで3人目となる資格初年度での殿堂入りが発表された。45歳4か月の殿堂入りは1965年、川上哲治の45歳8か月を抜く史上最年少でもあった。当選に必要な票数は243票だったが、野茂は267票、秋山幸二257票、佐々木主浩255票で、1980年代から90年代を彩った3選手が殿堂入りした。4位以下は4位原辰徳196、5位古田敦也165、6斎藤雅樹149票、7位清原和博69票、8位大島康徳60票、9岡田彰布49票、10位西本聖、篠塚和典各36票だった。

 当日、紙面に掲載した「ヒルマニア」を修正して書く。

2 1995年ドジャースの野茂は、1年目で奪三振王に輝き、マリナーズの佐々木は、2年目の2001年に自己最多の45セーブを挙げた。2人のメジャーでのベストシーズンを現地で取材しただけに、殿堂入りはうれしいニュースだった。日米201勝の野茂、同じく381セーブの佐々木。ともに日本だけの数字なら、もっと時間がかかったに違いない。米国での活躍が大いに加味されたことは間違いない。野茂は史上3人目の資格1年目の「当選」だが、得票率82%は、60年スタルヒンの97%、94年王貞治の93%に比べると低い。投票しなかった57人は、まだ殿堂入りは早いと思っているのか、それとも近鉄からド軍入りの経緯に不満を持っているのだろう。ただ言えることは野茂がいたからこそ、その後のメジャー入りした松坂大輔、黒田博樹、ダルビッシュ有、そして田中将大らのように、メジャーとの契約時にほぼローテーション入りが決定づけられるようになった。しかし、野茂はマイナーからの出発で道を切り開き、日本で229セーブをマークして渡米した佐々木も、前年33セーブを挙げたホゼ・メサとの守護神争いのスタートだった。ともにオープン戦で結果を出し、メジャーでの居場所をつかんだ。

 そろって新人王に輝いたものの、開幕直後はともに躓いた。野茂は最初の6試合で1勝も挙げられず、佐々木は5月に2試合連続逆転サヨナラ本塁打を浴びた。試合後、マリナーズのルーL・ピネラ監督に「ササキは抑えの仕事を失った」と言われ、ロッカールームで涙した。野茂は6月に2完封含む6勝0敗という圧倒的な数字でメジャーを席巻させた。2人そろって苦難を糧にし、それぞれドジャース、マリナーズのポストシーズン進出に大きく貢献した。ドジャース時代のラソーダ監督が、日本人選手のメジャー挑戦の道を開いたことで「野茂は(人種の壁を破った)ジャッキー・ロビンソンのようだ」と米殿堂投票結果発表の際に語ったが、佐々木も日本のクローザーが米国で通用することを教えてくれたのだった。

 野茂は「現役時代は記者の方とも仲良くなかった。アメリカでも(殿堂入りは)なかったし、日本でも可能性は低いと思っていたので驚いている。自分の試合を見て、楽しんでもらい、それが評価されたのならうれしい」と淡々と答えた。一方の佐々木は「小さい頃は体が弱くて、それを克復するために始めた野球で、まさかこんな賞をいただけるとは」と感慨無量な面持ちだった。

3 野茂が初年度、佐々木が4度目なのに対し、もう一人の秋山幸二は7度目のチャレンジでの殿堂入りだった。前者2人がドラフト1位だったが、秋山はドラフト外。プロ入り4年間で一軍はわずか57試合、本塁打も4本だけだったが、5年目から最初は三塁、後に強肩好守の中堅手として活躍。走攻守三拍子揃って、1990年代で日米野球が行われる度に“メジャーでプレー出来る外野手”とのキャッチフレーズもあった。西武ライオンズ、ダイエーホークスで主力打者として両チームで日本一になった。日本シリーズMVPも2チームで1度ずつ受賞。モットーは「体技心」だという。22年間もプレー出来た丈夫な体に産んでくれ、野球の道に導いた母親・ミスエさんへ「喜んでくれていると思う」と感謝の気持ちを忘れなかった。選手、監督と両方で正力賞受賞は、王貞治に次いで2人目(工藤公康が3人目となる)だった。

 この年から殿堂投票に関して規則改正された。エキスパートの投票資格に野球記者歴30年以上という項目が加わって、私もプレーヤーだけでなく、こちらの投票資格も得た。同部門の記名数も3人から5人に増えた。他には、“初年度得票率3%未満は候補者資格を失う”の一文から、初年度を削除。また、プロ野球の審判員をエキスパートから、特別表彰に回した。

 一気に投票資格者が前年の48人から112人に増えたエキスパート部門。私は平松政次、榎本喜八、権藤博、ブーマー、リーの5人を記入した。しかし、最多得票が平松の50票と当選必要票数の73票に遠く及ばなかった。同投票では無効が4票あったほか、11人が棄権。また、候補者が20人もいたのも票がばらける要因になったようだ。

 特別表彰は早稲田大学野球部マネジャーとして1943年“最後の早慶戦”実現に奔走。戦時中に野球用具の保管で戦後のいち早い球界復活に貢献した相田暢一が14人満票で殿堂入り。学生監督からを務めた後、日本学生野球協会、全日本大学野球連盟などの運営やアマ球界の審判としても活躍した。特別の候補に入っていた私の仲人でもある“記録の神様”宇佐美徹也は0票でこの年限りで候補者から外れることになる。

 【注】敬称略。写真はいずれも殿堂入り3選手の全盛時代の雄姿。野茂英雄はノーヒッターを達成する1996年。佐々木主浩はベイスターズを日本一に導いた1998年、秋山幸二は通算200号アーチを決めた1990年。

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蛭間 豊章

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