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2017年2月 8日 (水)

【野球遺産第1回】自動車学校に生まれ変わったスタジアム 日本初のプロ野球試合の舞台は今

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 2007年2月9日、名古屋市緑区にある名鉄自動車学校に野球遺産「鳴海球場跡」というプレートが完成、披露された。それは「鳴海球場の開場80周年を記念、そして初の職業野球開催の地を記念して 元のホームベースがあった場所に金のホームベースとプレートが設置されたのだ。

 ちょうど10年経った1月31日に当地を訪問する機会があり、それを見せていただいたのだが、それ以上に驚かされたのが一塁側と三塁側にあったスタンドが残っている風景。この風景は名古屋市の登録地域建造物資産「第98号」に登録されていると伺った。

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 鳴海球場は、東の神宮球場、西の甲子園球場に対抗して、愛知電気鉄道(後の名古屋鉄道)が鳴海地区内の約10万坪の土地に1927年にスタジアムを建造。当初は鉄傘を設けた内野席7500人、外野席15000人。グラウンドは両翼106メートル、センター136メートルという巨大なスタジアムだった。当時の東海地区の中等野球のメッカとして人気を集める一方で、1931年にはルー・ゲーリッグらを交えた日米野球(対戦相手は全慶応)で3万人が集まった、と新愛知新聞は報じている。

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 ベーブ・ルースらが来日した1934年の日米野球は当地で2試合が行われている。1932年の野球統制令でアマチュア選手が米プロ野球選手と対戦できないために結成された全日本と対戦。当時の新愛知新聞に球場の広さがイラストで書かれており、それによれば当時の両翼は98.3メートル、中堅は125.0メートルと外野席拡張のためかやや狭くなっている。2試合を戦ったが、詰めかけたファンの待っていたホームランが出ていないところをみても、やや狭くしても当時としてはまだまだ広かったのがうかがえる。日米野球では1951年にも全米選抜チームと名古屋(現中日ドラゴンズ)が対戦。11―1と圧勝もさることながら1950年に設置されたラッキーゾーンで両翼91メートルとなって、全米選抜が3本の本塁打を放っている。

 さて、話をプロ野球初試合(もう一つの説=1923年の日本運動協会対天勝野球団は【注】参照)に戻そう。1936年にプロ野球が7チームで正式に発足。創立総会は2月5日だったが、その後4日後にこの鳴海球場で東京巨人対名古屋金鯱の間で行われた。当初5試合が予定されていた(1、2、11日が鳴海、8、9日が静岡)ものの、愛知県地方大雪のために鳴海での3連戦に変更された。金鯱軍のスポンサーでもある名古屋新聞は、ほぼ1ページを割いて報道。1回に青柴憲一、2回途中からマウンドに上がったエースの沢村栄治を攻略。特に巨人の計3投手で18四死球という自滅でもあったが、記念すべき試合はワンサイドに終わった。第2戦、第3戦は8-3、4-2で巨人が連勝、面目を保った感がある。観客数は報じられていないが第2戦の雑観集「鳴海アラカルト」には、観衆実に二千余と書かれている。また、ラヂオ欄には3日間とも中継と書かれていた。寒さも手伝って日米野球ほどの大観衆とはいかなかったようだ。ちなみに巨人の1番打者・田部武雄は母親の病気で広島に帰省していたが初戦の敗戦で、球団から呼び寄せられ第3戦に間に合って貴重な二塁打を放ち俊足を利して貴重な追加点を挙げている。

 プロ野球が始まっても当時はフランチャイズの認識がなく戦前は、東京が後楽園、関西が甲子園と西宮でほとんどの試合を開催。鳴海球場では戦前の公式戦は1936年13試合、38年6試合、40年2試合。戦後は1948年に中日スタヂアム完成を機に一気に開催数が減り、2リーグ制以降ではセ・リーグが18試合行っただけ(パ・リーグは開催されず)。1953年5月3日、名古屋ドラゴンズと大阪タイガースのダブルヘッダーが最後となった。結局1968年に寂しく閉鎖され、翌年名鉄自動車学校に生まれ変わったが、往時を偲ばせるスタンドだけでなく、昔のスタジアムの敷地を最大活用してくれたことにより今に続く、日本の野球遺産の一つになっている。

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 【注】日本のプロ野球初試合にはもう一つの説がある。それは1920年に、当時過熱化してきた学生野球に一石を投じる意味で結成された日本初の職業野球チームの日本運動協会。その後、野球殿堂入りを果たすことになる橋戸信、河野安通志、押川清の早大OBが中心になり、早大野球部部長でもあった安部磯雄氏のバックアップもあって立ち上げられた。 一方、奇術師・松旭斎天勝一座の経営者、野呂辰之助が1923年に自ら保持していた野球チームを発展的解消、大学野球の名手も集めてプロ化宣言したのが「天勝野球団」。1923年6月21日、京城(現ソウル)に記念すべきプロチーム同士の対戦が実現。試合は接戦の末、天勝野球団が6―5で逃げ切った。3日後の第2戦は3-1で運動協会が勝ち、8月30日に運動協会の本拠地・芝浦球場での第3戦は5-1で運動協会が連勝した。そんな矢先の9月1日に関東大震災が襲って、それきりとなってしまった。どちらが初のプロ野球の対戦かは読者の判断に任せたい。

写真は上から鳴海球場のプレートとホームベース、現在も残るスタンド、1936年2月10日付け名古屋新聞、名鉄自動車学校のコース図。(協力=名鉄自動車学校)

コメント

昭和51年に再来日したバッキー・ハリス捕手が、この球場跡に訪れています。
「ワタシシヌマデワスレナイヨ」
と往時を思い出して涙ぐんでいたそうです。

田部武雄のことが書いていますが、彼については『天才野球人 田部武雄』(彩流社・刊/菊池清麿・著)に詳細に書かれています。

野球太郎冠者様
私も本を読んでおります。
面白い本でしたね。
田部の部分は名古屋新聞
の記述です。
田部さんの本はなぜ第3戦だけに
出場したか書いていませんね。

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蛭間 豊章

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