ブログ報知

スポーツ報知ブログ一覧

« 野球殿堂記者投票への考察=第61回(2016年度)工藤公康、日本一監督効果か初年度当選。斎藤雅樹は10年目。エキスパートでは榎本喜八感激の殿堂入り。山中、松本は特別で。 | メイン | WBC日本ラウンド、子供達のためにも18時台開始をするべきだ »

2017年3月11日 (土)

【野球遺産第4回】初の黒人選手は洲崎でプレー出来なかった。プロリーグ初年度、沢村、景浦が躍動した短命、洲崎球場

_20170304_132657 プロ野球がスタートした1936年。上井草球場に続き、完成したのが洲崎球場だった。現在の地下鉄東西線の東陽町駅から歩いて5分くらい、江東運転免許試験場前に洲崎球場があったことを示す江東区が2005年に設置したモニュメント(写真)がある。そのスタジアムは大東京軍が東京ガスの資材置き場1万坪を地代無しで借り受け、秋に突貫工事で11月開催の日程に間に合わせた。同年12月に行われた東京ジャイアンツと大阪タイガースの秋季優勝決定シリーズの名勝負は沢村栄治、景浦将というプロ野球草創期の投打のスーパーヒーローが相まみえて語り草になった。

 しかし、海に面した埋め建て地のため水はけが悪いことで予定されたお披露目試合が度々順延された。そして、1938年3月15日の巨人・金鯱のオープン戦では突然、球場横の掘割の土手が崩れて海水がグラウンドに流れ込んでジャイアンツのコールド勝ちになった珍ケースもあった。プロ野球が使用したのはわずか3年。レギュラーシーズンは計116試合だけ。上井草球場同様に、都心で足の便の良い後楽園球場が1937年9月に完成してからは一気に試合開催が減った。

2_2 洲崎球場については2014年10月に、森田創さんが調査、執筆された「洲崎球場のポール際」(講談社)=写真=が秀逸で詳しい。そこでこの年、わずか7試合24打数11安打の猛打を誇りながら、期待した投手としての成績が9回2/3で14失点というあまりの乱調で解雇された日本初の黒人選手ジミー・ボンナの事を書く。

 創立から夏季のシリーズまで、1分け挟んで13連敗(14連敗まで伸びる)の大東京は、米国の関係者に頼んで獲得したのがボンナだった。入団が決まった当時の読売新聞では「2日間で3試合を投げ46三振。うち1試合では22個を奪った剛腕」とある。契約書によると、1か月の給料が400円(現在の貨幣価値なら約250万円)。当時のスーパースター、巨人の沢村栄治投手でさえ120円だっただけに、いかに期待のほどが大きかったかが分かる。

 大東京のスポンサーである国民新聞は連日のようにボンナ情報を掲載。10月14日の「洲崎大東京球場落成式」の直後に、ボンナが関係者が見守る中での練習を伝える記事が15日付けにある。それによると

 「怪腕黒人投手ボンナ君も参列者の前に初めてデビューして遠藤(忠二郎)主戦投手とともに捕手筒井(良武)君を相手にピッチングを見せたが、ググっと強肩から繰り出す熱球はガクンと鋭いドロップにプレートを切ってミットにおさまる投球ぶりは“あんな球がどこまで出るんだろう"と参列者一同をうならせた」とある。しかし、それがまったくの眉唾だと分かるのに時間はかからなかった。

3_2

  開場記念試合がグラウンドコンディション不良のために中止となりボンナが初めて日本でプレーしたのは何と10月18日桐生新川球場での名古屋とのダブルヘッダー(この試合の塁審は巨人を退団した田部武雄だった。第2試合は降雨ノーゲーム)、4番一塁で5打数2安打。洲崎でのデビューは21日名古屋戦で同じ「4番・一塁」で3打数2安打、適時三塁打を放ってチームを勝利に導き地元ファンを喜ばせたが、マウンドに立つことはなかった。

 腕試しのオープン戦を終えて初の公式戦は宝塚大会。23日タイガースとの一戦。勇躍、「4番・投手」としてマウンドに上がるもいきなり1回に伊賀上良平にグランドスラムを浴びるなど9失点でKO。それでもバットではタイムリーを放って3打点。引き分けに終わったため翌日も先発したが再び初回降板。今度は二塁に回り3安打放つも2失策(この試合で大東京はタイガースに日本プロ野球記録の13盗塁許す)で足を引っ張った。上井草球場での東京リーグ戦を前に、オープン戦として10月30日静岡草薙球場で名古屋戦、11月1日浜松東洋紡績球場での阪急戦でともに「4番・二塁」として計7打数1安打2打点で、またもマウンドに上がらなかった。

4 満を持して11月3日、セネタース戦で再び先発マウンドに上がった。打順も4番。1回内野安打されたものの併殺打に仕留めたが、球威がない上制球力もままならず。2回1死から3連続四球の後、野口明に満塁一掃の右中間三塁打浴び降板。そのまま遊撃を守り5打数2安打。翌日の巨人戦は「4番・二塁」。4回に安打で出てホームスチールを決めた。しかし、3点リードの9回の守り。1死一塁で三塁ゴロ、三塁走者が二塁に送ろうとしたがボンナが二塁に入らずオールセーフ。その後1点差にされた場面で交代。ところが代わりに二塁に入った大友一明が何でもないゴロをつかんで一塁悪送球して逆転サヨナラ負け。

 これで業を煮やした伊藤勝三監督は2試合続けてボンナを先発から外した。途中から遊撃に入った6日のタイガース戦、9回2アウトから安打で出るも二塁で牽制アウトでタッチアウト。10日の阪急戦、「6番・一塁」で先発出場。8回からマウンドに上がるも失策がらみで1失点。それでも打席では4打数3安打を放った。だが、最後が悪かった。9回2アウトから三塁打を放ったがオーバーランでゲームセット。三塁塁上で呆然と立ちすくむ。ファンがボンナを見た最後だった。出場7試合でチームは1分け6敗だったことも解雇の理由になったのだろう。

 4試合投げて9回2/3を14失点。52人の打者に14四死球で三振はわずか2。後にセ・リーグ会長となる大東京の鈴木竜二代表は、自らの回想録で「(オーナーが)黒人の投手だ、というからアメリカなら大丈夫だろうと思って取ったら、ひどいノーコンの上に、トンボが止まるといわれるほどのスローボールで、全然使いものにならない。失敗の外人第一号でもあった」と記している。数日後、読売新聞には「体調がすぐれず帰国させた」との球団発表が載っただけだった。ただ、公式戦の打撃成績は24打数11安打の4割5分8厘をマーク。元国民新聞社会部長だった鈴木代表は「当時、私は野球を知らなかった」と述懐しており、もし打撃の良さを考慮して野手に専念させて起用し続けていれば、草創期の日本プロ野球をもっと沸かせていたかも知れない。結局、大東京の本拠・洲崎球場での公式戦で1度もプレーすることなく去っていった。

 【注】写真は江東区が作ったモニュメント。地図は1936年11月28日付け読売新聞。ボンナの写真はいずれも国民新聞より。

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。

サイト内検索

蛭間 豊章

ヒルマニアロゴ

最近のトラックバック

見出し、記事、写真の無断転載を禁じます。Copyright © The Hochi Shimbun.