ブログ報知

スポーツ報知ブログ一覧

« メジャーの球宴オールスターズはこれだ(第848回) | メイン | ボンヤリ気候攻略で埼玉県勢初悲願 »

2017年8月 9日 (水)

夏の甲子園、50年前にサヨナラホームスチールがあった(第849回)

19670815 7月12日付けの朝日新聞、月刊高校野球7月号は、2014年の第96回大会で大会タイ記録の8盗塁をマークした健大高崎の平山敦規にスポットを当て、それに最近のホームスチールの話も加えて面白い読み物だった。しかし、「甲子園を沸かせた盗塁の数々」と題した写真4点の中に大切な試合が入っていない。それは、春夏を通じて1度しかいないサヨナラホームスチールだ。

 今からちょうど50年前の1967年8月14日、大会4日目の第3試合、大宮(埼玉)と報徳学園(兵庫)の1回戦だった。大宮が2回、4番・吉田誠が左中間中段に飛び込む木製バット時代の甲子園史上最長アーチを放ち、1死後新井も2ランを左翼ポール際にたたき込み3点を先取。報徳も2回に大西、8回も米田がソロアーチ。この時点で当時の大会新記録となる1試合4本の本塁打が飛び交っていた。1点差で迎えた9回、春のセンバツで8強に入った優勝候補の一角の報徳は粘る。

 簡単に2アウトとなったが、代打・菅原が0ボール2ストライクから粘って四球で出塁(代走岡本)。地元ファンの大声援に送られて打席に立った1番の吉田和幸が「(清水)監督から内角へ来たら思いきり引っ張れと言われました」3田目の内角球を浅い左中間を割る同点の三塁打となった。大歓声が鳴りやまない中、続く左打者・太田のカウント2-2からの5球目だった。「相手投手の金子君はモーションが大きいので走れる。そう思ってベンチを見ると監督から“走れ"のサイン。ボクは100メートル12秒台で足には自信があった」と吉田が猛然と足から滑った鮮やかなホームスチール。投球も外角高くそれて中西明球審の手が横に広がった。

 報徳学園は2回戦で東奥義塾(青森)に0-2で姿を消したことで、このサヨナラホームスチールは意外に知られていない。しかし、大宮は同年の埼玉国体で県代表が決まっていたことで長谷川監督は「優勝候補の報徳と堂々渡り合った選手をほめてやってください。すぐ帰って国体を目指して練習に入ります」と話していた。言葉通り、国体では仙台商に7-0、今治南に4-0、決勝戦も大分商に5-1で快勝し初優勝(埼玉県勢では唯一)。長谷川監督は「負けた気のしない夏の大会の幕切れが頭にこびりついて、何が何でも勝ちたかった」と胴上げされて感涙にむせんでいた。

 この年の大宮は、甲子園ベンチ入りの14人のうち、投手金子勝美が早大で三塁手に転向し首位打者を獲得した後、中日入り。甲子園大アーチでスカウトの度肝を抜いた4番吉田誠外野手は同年ドラフト1位で東映入り。同じく甲子園で本塁打を放った2年生の新井良夫は投手となって阪急入り。1年生で「6番・一塁」の鈴木治彦(現在は葉留彦)は、早大からクラウンライター(現西武)入りし、西武の球団本部長の要職にある。同じ1年生でもう一人、ベンチ入りした島村雄二も好守の遊撃手となって広島入りと、何と計5人が後にプロ野球に飛び込んだ強力なチームだった。

 報徳学園がその後も甲子園に度々出場しているのに対し、初出場の1957年いきなり準決勝進出するなど甲子園に春夏通算7度出場していた大宮の全国大会出場はこの年が最後となる。夏の県大会決勝進出も翌年、大宮工に敗れたのを最後に途絶え、最後のベスト4進出も1991年。理数科が加わって進学校と化した近年は、序盤戦で姿を消すのが多く、部員16人で戦った今年も初戦こそ勝ったものの2回戦で敗退した(それでも慶大に進学し2004年秋の六大学で首位打者となった中村太郎のような選手も輩出している)。

 滋賀の彦根東が公立校で甲子園出場し初戦に勝っただけに、OBの一人として野球部の奮闘を期待したい。

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。

サイト内検索

蛭間 豊章

ヒルマニアロゴ

最近のトラックバック

見出し、記事、写真の無断転載を禁じます。Copyright © The Hochi Shimbun.