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2016年12月28日 (水)

野球殿堂記者投票への考察=第52回(2007年度)200勝以上挙げ、唯一負け越した梶本隆夫。そして競技者表彰で漏れた松永怜一が特別表彰で殿堂入り

585a8649tg2 競技者表彰と特別表彰に分かれていた最終年となった2007年の殿堂入りは、1月12日に発表された。競技者表彰では前年12票足りず次点に終わり、9月23日に呼吸不全で死去した梶本隆夫が一気に55票伸ばし261票で当選。残念だったのが次点に終わった権藤博、9票足りない220票。この年限りで競技者投票の資格を失った。3位は星野仙一195票、4位外木場義郎182票、5位大沢啓二、山本浩二ともに179票、7位田淵幸一136票、8位堀内恒夫133票、9位村上雅則119票、10位東尾修81票、11位は大野豊だった。

 1954年のプロ入り1年目に20勝しながら、同じ新人の南海ホークス・宅和本司が26勝したため新人王になれなかった梶本隆夫は、阪急ブレーブスのエース左腕として通算254勝255敗。200勝以上24人中ただ一人の負け越している投手だ。それでもデビューから4年間で3度20勝をマーク、1957年9月27日に西鉄ライオンズ戦に勝ち、通算勝敗で89勝57敗、貯金32まで伸ばしていた。しかし、その後の16シーズン中11シーズンで負け越し。中でも1966年に1シーズンではワースト記録の15連敗(翌年まで通算すると16連敗)が痛かった。1973年に借金1で現役を引退して投手コーチ専任となったものの、1976年にチームが一、二軍を通じて左腕が白石静生1人というお家事情で現役復帰の話が持ち上がり、ピッチング練習を重ねたが、チームが前後期優勝ということで立ち消えとなった。快記録も持っている。1957年7月23日ホークス戦で、当時日本プロ野球どころかメジャーでも誰も達成していなかった9者連続奪三振を達成した。また、1959年には、近鉄バファローズ戦で8回先頭の小玉明利に初の走者となる四球を出して完全試合ならず。9回2死から1番に入っていた関森正治にカーブを三遊間に運ばれてノーヒットノーランも逃した。ちなみにその試合が行われた6月12日には、後楽園球場正門前に野球博物館オープンした日。これも何かの因縁だろう。

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2016年11月 9日 (水)

野球殿堂記者投票への考察=第44回(2001年度)根本陸夫が競技者、長谷川良平が特別表彰。これは逆でしょ

1 2001年1月。個人的な事を言わせていただくと当時私は、マリナーズ入りしたイチローのシアトルでの自主トレ取材のために渡米中だった。ですから1月12日の投票結果は海の向こうで知った。競技者投票は1位の根本陸夫が245票、2位の小山正明が232票を獲得して殿堂入りを決めた。以下3位田宮謙次郎217票、4位鈴木啓示211票、5位山内一弘186票、6位福本豊179票、7位関根潤三162票、8位R・バース147票、9位上田利治131票の順だった。現役時代捕手だった根本の一軍出場はわずか186試合だったが、監督として広島東洋カープ、クラウンライター、西武のライオンズ時代、そしてダイエーホークスで指揮を執り一度も優勝に導いたことはなかったものの、ライオンズの管理部長として手腕を発揮し黄金時代の基礎を築き、ホークスでもフロントとして王貞治招聘そして常勝チームの礎を作った球界の功労者である。彼の功績の数々は9月に出版されたばかりの髙橋安幸著「プロ野球のすべてを知っていた男 根本陸夫伝」(集英社=写真)に詳しい。

 

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2016年9月18日 (日)

野球殿堂記者投票への考察=第39回(1996年度)鉄人・衣笠祥雄、悲運の名投手・藤田元司殿堂入り

Fujita

 前年1票足らずに落選した藤田元司が有資格3年目で199票獲得。当選に必要な174票を大きくクリアして殿堂入り。衣笠祥雄も4度目の挑戦で188票を獲得。1968年にユニホームを脱いで5年という規定となってからは49歳の衣笠は最年少選出(現役監督OKだった1965年川上哲治45歳、同年鶴岡一人49歳)だった。3位以下は3位近藤貞雄148票、4位大杉勝男139票、5位広瀬叔功104票、6位古葉竹識98票、7位松永怜一75票、8位梶本隆夫52票、9位関根潤三52票、10位根本陸夫50票。明治大・島岡吉郎、早稲田大・石井藤吉郎に次いでプロ未経験のアマチュア指導者として元法政大監督で、1984年ロサンゼルス五輪、公開競技ながら野球部門で米国を破って世界一に導いた日本代表監督の松永怜一がノミネートされた。

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2016年9月14日 (水)

野球殿堂記者投票への考察=第38回(1995年度) 日本シリーズ4戦4勝の杉浦忠。殿堂入り発表日に球界に苦言。西村正夫は資格最終年も落選

57d16e62tg4 この年の野球殿堂で会見した杉浦忠は、プロ野球界に苦言を呈したことで知られる。1月25日の競技者表彰発表で、規定の150票を上まわったのは1959年公式戦38勝4敗、日本シリーズ4戦4勝の大車輪の活躍で南海ホークス初の日本一の立役者・杉浦が171票、4年前の元明大監督・島岡吉郎に次いで、プロ経験0ながら早大の選手、監督を務めた石井藤吉郎が160票を得て当選した。杉浦は立大時代に長嶋茂雄、本屋敷錦吾の三遊間とともに右腕エースとして1957年春夏連覇に貢献。下手からの速球とカーブで一時代を築き、前述の1959年には38勝4敗と30勝以上では史上最高勝率の9割5厘。そして、日本シリーズでは4試合中2試合に完投するなど、チーム37イニング中32イニングを投げ6失点だった。第3戦、杉浦完投で王手をかけた鶴岡一人監督は「(第4戦を)勝つには杉浦以外にない。もっとも先発ということはない」と断言していた。しかし、第4戦が雨で順延し休養が与えられて先発し完封勝利を挙げた。読売ジャイアンツは前年の1958年、3勝0敗で迎えた第4戦が雨で順延。これで西鉄ライオンズに流れが移り4連敗。その再現を期待しながら逆に完封負けと、2年続けて恨みの雨となった。

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2016年8月21日 (日)

野球殿堂記者投票への考察=第35回(1992年度)豊田泰光のライバル、名遊撃手2人が殿堂入り

57b588bftg1 現役時代は西鉄ライオンズの3連覇に貢献した勝負強いバッティング、野球評論家として辛口ながら選手目線で優しさのある、そして野球界の将来を考えた背広組への手厳しいコメントで、硬派 野球ファンの人気を集めていた豊田泰光が8月14日に81歳で亡くなった。ほとんどのスポーツ紙に掲載されていたのが、現役時代の遊撃の守備ぶりを伝えた野球評論家・小西得郎が1950年代半ばに、巨人・広岡達朗、阪神・吉田義男、豊田という当時の球界を代表する3人の遊撃手を評した「吉田は絹糸、広岡は麻糸、豊田は木綿糸」というコメント。打球を素早く処理する華麗さの吉田、爽やかなプレーの広岡、武骨なまでに泥臭い豊田というわけだ。ただ、打撃成績では豊田、吉田、広岡の順だった、そんなライバル広岡と吉田が先に野球殿堂入りした(豊田は2006年)。1月22日に発表された競技者投票部門、当選必要数は162票だったが、(1)広岡達朗174票、(2)坪内道則172票、(3)吉田義男166票。1948年にプロ野球初の1000試合出場と1000安打を達成した坪内とともに選出された。

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2015年12月 3日 (木)

高橋ユニオンズOB会(第828回)

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 1954年からわずか3年間で消滅した高橋ユニオンズ(1955年はトンボユニオンズ)OB会が2日、都内で行われた。今年始めに、高橋龍太郎オーナーのお孫さんの秋山哲夫さんが「高橋ユニオンズ3年間の歩み」を自費出版し、報知新聞を始め一般紙にも掲載されて話題を呼んだ。同オーナーの生家のある愛媛県(内小町)でも注目され、地元・南海放送ラジオの「デンスケ江刺の邪道をゆく」通じ、4回に分けて“高橋ユニオンズとは!?”がオンエアーされた。

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2015年7月10日 (金)

甲子園大会ベストナイン。投手は嶋清一に決まり(第815回)

Photo_3 スポーツ報知の「高校野球100年」企画第一弾は、名将の方々が選ぶ甲子園大会ベストナイン。表にあるように、監督時代に印象に残った精鋭を選出してもらった。この企画、デスクから「6人が終わったら番外編をやってください」との依頼。雑誌「報知高校野球」で“記録de高校野球」というコラムを20年近く連載、高校野球史を調べたこともあったので快諾した。しかし、約100年の歴史にあまたの名選手がいた。そこから9人選ぶのは至難の業。もちろん、大会での活躍を優先するのは当然だが、春夏の大会で少なくとも2度以上出場選手に限った。これは1983年センバツで11打席連続出塁、そして3本塁打含む10打数9安打の脅威の成績を残した享栄・藤王康晴選手の存在があったからだ。彼には申しわけないが一定のラインを引いた。また、選手を融通し合うことはやめ、甲子園で守っていない選手は選ばないことだった。

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2015年4月16日 (木)

早稲田大学で「戦後70年 学徒たちの戦場」開催中です(特別編)

20150416_1748401 前回のブログ、鉄道歴史展示室(旧新橋停車場)で開催されている「野球と鉄道」の企画展に続いて、早稲田大学の會津八一記念博物館内での「戦後70年 学徒達の戦場」をご紹介します。

 同大学では大学史資料センターが随時、企画展を開催。用意されていたパンフレットによれば、戦後70年経って、戦争やそれらにまつわる記憶、あるいは学徒出陣や学徒兵に関するイメージが薄らいでゆく状況を考慮。出陣学徒という枠に固執せずに、繰り上げ卒業生や既卒“学徒兵”あるいは復員学徒や遺族達の戦後まで思いも込めて、戦争を問いなおそうとしての素晴らしい展示である。

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2012年11月26日 (月)

剛球左腕・池田信夫さんの思い出。(第710回)

 私のブログ 市川崑監督の「青春」のDVD販売を(第443回)が縁で知り合った拓大一高野球部の関係者の方から、「(前監督の)池田さんが亡くなった」との訃報が届いた。1994年センバツに導いた監督で今夏まで采配を振るっていたが、10月に体調を崩して病の床に伏せっていたそうだ。その方からのメールでDVDをお貸しして、病床の池田さんも1968年第50回大会を記念して作られたDVDの中で、躍動感あふれる自分のピッチングとバッティング、ランニングをご覧になって、大変喜んでいたそうだ。

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2012年8月14日 (火)

済々黌と甲子園審判のナイスプレー(695回)

 13日の甲子園、熊本代表の古豪・済々黌(せいせいこう)が、徳島代表・鳴門に3―1で勝利したが、1点リードの7回。1死一、三塁から遊直が一塁に転送されて併殺が完成する前に、三塁走者が帰塁しないまま生還。鳴門のアピールがなく得点が認められて貴重なダメ押し点が入るという珍しいプレーがあった。

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蛭間 豊章

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