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2017年10月31日 (火)

本日をもって「しょうちゃんブログ」は終わります。

正直、不本意ながらですが、

至らぬところがあり、仕方ありません。

これまで取材に協力してくださった関係者の方には本当に感謝しています。

報知新聞社で仕事ができたのは、

故・川島正行師のおかげだと思っています。

仕事をしてきたなかでは、

調教師、騎手のコラムを担当。

特に、森泰斗騎手の研究心には頭が下がりました。

馬には乗ることはできませんが、

レースを見ることに関しては、見習うところ多々です。

そして、

小久保智調教師、高月賢一調教師ありがとうございました。

今後は、これまで培ってきたことを忘れずに、

がんばっていきたいと思っています。

取材をしてきたなかで、

一番心に残っているは、

川崎競馬の関係者をインタービューし、

シリーズとした企画(12年)。

当時は、大変だな、と思いつつ続けましたが、

終わってみれば、

非常に勉強になることばかりでした。

そんななかでも、

岩本洋調教師を取り上げたときのこと。

上下に渡り、2日に分けて紙面で掲載されました。

 夏の甲子園大会を目指し、予選大会が近づくこのころ、毎年のように母校、野球の名門・日大三高のことが気になると言う。「高校に上がってからは、野球はやめましたが、日大三高の中等部で野球をしていました。仲間は甲子園へ行き、準優勝をしましたからね」。青春時代、白球を追いかけた。

 父の亀五郎氏は、川崎競馬の調教師。その厳格さはまわりからも周知されていたほど。高校を卒業するころに馬をやろうと思った。「父からはとにかく『馬をやるなら騎手になれ』と言われた」。ただ、体重が56キロくらいあり、減量と戦うつらい日々が続いた。「減食して学校に行くにも大変だった」。そのとき感じたのが“我慢”だった。「野球をやっていたときもそうでしたが精通するところがありますね」。

 朝はパン2枚に、牛乳。昼は野菜で。なおかつ汗取り、まわりは丼飯を食べている。「みんなには一時期『(誘いに)来ないでくれ』と言ったくらいです。父の厳しさより、食べないことの方の我慢がキツかった」。その我慢の甲斐あって、73年4月にデビュー。騎手時代の思い出の馬は、3つの重賞(76年八王子記念、同年アラブ王冠賞、78年船橋記念)を制したタクマスリー。「逃げ馬なんだけど、行ききるまでが大変だった。ただハナに立つと強さを見せた」と懐かしんだ。

 父、故・亀次郎氏の体調不安で騎手生活は、7年(73~79年)でピリオドを打つことなり、長くはなかったが、中身の濃い日々を送った。76年に神奈川県騎手会会長となり、全日本騎手連盟を立ち上げた。「騎手の身分の確立が目的。進上金など、騎手の立場を強くをもっとうに連盟を作りました」。自分のこと以外に、業界のことに携わり、尽力した。
 80年に調教師へと転身し、父の厩舎も見守りつつ、4馬房から開業。「(父は)見て覚えろという感じでしたね」。父の背中を見ながら、いろいろなことを吸収した。「(馬の仕事は)好きになることがいいことなのかもしれない。知らなければ、知らないでそれまで。知れば知るほど奥が深い。何の仕事でもそうでしょう(笑)。知らない、知らないではそれまでなんですから。難しいですね」と話す。
 98~08年まで神奈川県調教師会長を歴任。川崎競馬の赤字対策として、経営改善検討会議などを開き、駅前で、無料券(入場)を配布しお客さんを呼び寄せた。06年、初めて川崎競馬場で行われたJBC開催がきっかけとなり「そこからなんとか黒字が出始めた。お正月開催が定着したことも大きい」と胸をなで下ろす。
 川崎競馬場は、家族連れで訪れ、公園が設置されている内馬場内でくつろぐ姿をよく目にする。「川崎市内にはこういう遊び場が少ないこともあるんでしょう。子供の時から競馬場に運んで、馬に興味を持ってもらえたらいいですね。先の長い話しになりますけど(笑)。川崎は、臨場感のある心が通うに競馬場。ファンの方には川崎を愛してほしい。いつまでも」とベテラン調教師が微笑みながら、熱いメッセージを送った。

horse

全文を掲載しましたが、

心に残る言葉というのは、

最後の方で師が話された「(馬の仕事は)好きになることがいいことなのかもしれない。知らなければ、知らないでそれまで。知れば知るほど奥が深い。何の仕事でもそうでしょう(笑)。知らない、知らないではそれまでなんですから。難しいですね」。

“知らない、知らないではそれまで”

ここです。

すごく奥が深いと思います。

12年の時の取材ですが、この言葉が頭に残っています。

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扉を閉ざしてしまえばそれまで。

でも、それでは次へと進まない。

ふとすれば、内気な性格の自分にとって、前向きになれる言葉でした。

今後も、人とのつながりも大事になりますが、

印(◎〇▲)を打っていくのもまた大事。

数年前のある日のこと。

相談にのっていただいた某スポーツ紙のW氏の言葉。

「印ひとつで、自分の意思を表現できるこんな仕事はない」。

確かにです。

馬を見て、見てわからなければ話しを聞きに行く。

このくり返しを今後も続けたい。

そう思っています。

2017年8月29日 (火)

28日は、御神本訓史騎手、そして繁田健一騎手が実戦復帰を果たしました。

そしてもう一人、

復帰を待つジョッキーが。

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6月20日の船橋競馬2Rで、

馬場へ入場する際に落馬負傷。

右足の踵を骨折した森泰斗騎手。

7月には本紙のコラムで状況を話していただきましたが、

またひと月過ぎたところで、

今週末の船橋競馬1日目(9月1日)、

本紙のコラム「森泰斗のタイトリスト」のなかで、

リハビリ中の近況などを話してくれる予定です。

森泰斗騎手のファンのみなさん。

必読ですsign03

2017年5月 9日 (火)

本日は競馬の話ではなく、

本日9日付けの本紙終面で記事になっている山本篤選手にエールをと思い書きます。

 

記事を読むと、

山本選手はリオデジャネイロ・パラリンピック走り幅跳び銀メダルリスト。

スノーボードで18年冬季平昌大会出場を狙い、

20年夏季東京大会の走り幅跳びでは、世界記録で金を狙う。

 

そのなかで左足を17歳の時に切断とある。

実は、私自身も左足を切断しております。

その箇所も義足をみると、山本選手と同じで、

膝から下を切断。

 

ただ、自分の場合は、小学校1年生だったか、2年生の時の交通事故。

山本選手の17歳での手術は、それは大変だったと思う。

 

小さい頃なら、

なんかそう意識することなく、

義足をずっとはいていくのだと思い、自然と慣れるところはあったが、

それが思春期あたりでの手術は、僕の場合とは違うと思う。

 

しかし、編集後記に切断はしたが、山本選手は「得たものしかない」と、

言い切ったとある。

さらに義肢装具学科に進学して、自ら不具合の調節ができる。

と。彼は前しか向いていないのだろう。

 

義足は、

4種使い分けで、短距離用、日常生活用、スノボ用と使い分けているという。

 

それで、自分はというと、

もうデブデブの体型で…coldsweats01

まあ、情けないのですが、

 

それでも、昔話しになりますが、

ロンドン五輪を目指したのです(すぐに挫折)。

 

当時、競輪の現役選手だった菅野浩司選手と出会い、

自転車競技出場を目指しました。

というより、思った。

 

しかしながら、菅野さんの指導を待つまでもなく、

地元・中山の坂路コース(坂道)で、

調教を積む(鍛えている途中)も膝が…。

膝が悲鳴をあげてしまい。

そこで万事休す。

あきらめました。

 

自分はもう体を動かすことはなく、

砂の上を歩いています。

 

スポーツで活躍する山本選手のことを知って、

やっぱり、エールを送りたいですね。

超人的な跳びを見せてほしい。

 

 

2017年4月14日 (金)

17日に森泰斗騎手から、「2000勝」を達成した際に作成された記念クオカードのプレゼント(5人に)が紙面で掲載されました。

 

見逃した方に、ここで改めて。

応募は、郵便はがきに〒住所、氏名、年齢、電話番号、地方競馬面へのご意見、ご要望を明記し、〒108―8485 報知新聞社編集局レース部競馬班「森泰斗騎手クオカード」プレゼント係まで。締め切りは4月17日(必着)。発表は賞品の発送をもって代える。

まだ間に合います。

 

 

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2016年12月31日 (土)

2016年の競馬が終了しました。

あまりというか、

かなり貢献できなかったと思いますが、

当ブログをのぞいていただき、

1年間ありがとうございました。

 

もう少しで年が明けます。

 

来年もこれまでやってきたことを続けると同時に、

予想はやはり、センス、と切れが大事。

 

これが欠けてると、ダメなんです。

 

センスを磨いて、切れ味を磨いて、

スパッと、いいの当てたいです。

地方も中央競馬も。

 

みなさま、よいお年をお迎えください。

 

2015年9月 7日 (月)

9月7日は、

川島先生がお亡くなりになられた日。

あの日から、

一年が経ちました。

突然の知らせでした。

正太郎くんから電話がかかってきました。

病院で亡くなりました。

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厩舎へ向かい、

先生のもとへ。

それまで、

競馬場では、

ときより、

厳しい表情があり、

大変なんだとは、

感じてましたが。

でも、

先生なら、

そんな気持ちでいました。

いろいろな、

思いがこみ上げてくるなか、

原稿は書かないといけない、

そんな思いでした。

先生が残した功績はもとより、

何よりも、競馬の発展のため、

ファンを大事に、

競馬をスポーツとし見てもらいたいと、

ことあるごとに話していました。

地方競馬は、

木でたとえるなら、

木の根っこなんだ。

この根っこの地方競馬が、

ささえていかなくてはならない。

名馬フリオーソを筆頭に、

数々のスターホースを送り出し、

そして、人を育てて、

内田博幸、戸崎圭太さんをJRAの騎手へ。

そして、

ミルコ・デムーロ騎手、クリスチャン・デムーロ騎手の、

この兄弟も、

先生のもとで短期免許で騎乗していたのです。

先生は、

ミルコについては「のみ込みが早かった」と話してました。

いまや、

みんな花形ジョッキーに。

戸崎さんがリーディングに立っていたころでしたか、

そんなときでした。

船橋開催で、先生の馬に騎乗しながらも、

勝ち星を重ねられないときがありました。

先生、戸崎さんどうしたのでしょう?と、

問うと、「リーディングジョッキーなんだから、

リーディングらしく乗るよう」と。

その時だけで、

もう次の開催からは、

なにか吹っ切れたように勝ち続けました。

しかし、

残した形跡は大きいです。

正太郎くんは、

今厳しいと思いますが、

「根を上げずに我慢する」。

先生は、こういう言葉をかけていました。

これからです。

先生の意志を受け継ぎ、

佐藤裕太厩舎が開業。

川島正一厩舎ともに、

残されたスタッフが、

あすの1勝を目指してます。

船橋ナイター開催の、

ライトアップを見ることなく、

他界されました。

でも、きっと、

天国で、船橋競馬場を見守ってくれてます。

 

後日、

お墓参り行きます。

昨年は、

いや、

たどり着くまで、

奥さんにそうとう、

迷惑をかけてしまいました。

今度は、

迷わずに、

行けると思います。

 

2015年6月14日 (日)
2014年11月27日 (木)
2013年11月 4日 (月)
2013年9月 1日 (日)