映画「告白」の中島哲也監督(下)
中島監督は登場人物のモノローグで展開されていく「告白」の原作を読んだとき、「人が向き合おうとしないところに『興味深い気持ちの悪さ』を覚えた」という。
「結局のところ、一番考えたのはコミュニケーション。それに尽きるんじゃないでしょうか」この言葉を聞き、映画と原作では結末が少し違っている疑問が少しだけ理解できたような気がした。
原作の湊かなえさんは、ある悩みを抱えていたという。ショッキングな内容でもあり、本が売れても評価されても、果たして「告白」を書いたのが正しかったのかどうか?
湊さんはこの映画を見て泣いたそうだ。そして自分の原作の「その向こう側の世界を見せてもらった」。自分が書いたことは間違いでなかった、とようやく思えたという。
「意識と潜在意識の狭間」で想像を絶するほどの自問自答を繰り返した末に完成する創作もある。作家は出来上がった後も終わりではなく、自問自答は続いていた。
監督自身もまた映画が完成しても「本当の答が見つかったわけではない」と言っている。
「携帯電話のメールなど、多くの若い人たちはあれだけたくさんの言葉を吐き会っているのに自分の気持ちを本当に伝えるための言葉は使えていない。何百人相手にメールをやっている人たちが、本当のコミュニケーションを取れているのか?」監督の頭の中には、この疑問が映画化へのひらめきやイメージとなって広がっていった。
「人は向き合って話すことをいつから捨てちゃったんだろ? と思うんですよ。向き合っていれば、その話す言葉の裏にあるいろんな表情だって見える。向き合うことは、エネルギーがいることだけれど単に情報を伝え合うだけではないんですよね」
お断りしておきますが、この先はネタバレ的な話になることをご了承ください。原作のエンディングは担任教師の娘殺害に関わった少年と教師森口は携帯電話でのやり取りになっている。それが映画では少年と森口が、感情をむき出しにしてぶつかる。
互いの精神状態は極限だ。恥ずかしながら、自分はこのシーンで泣いてしまった。
森口は復しゅうに駆られていただけでなく、教壇を去った後も、教師の心を捨て去ることのできなかった人なのだと思えた。娘さえ殺されなければ人を憎むことすら、知らない人生だったかもしれない。
「2人を向き合わせることは、早くから決めていました。そのときに俳優さんがどんな顔をするのか。特に松たか子さんは生徒をどんな顔で見るのか。このときの表情が、この作品を映画化する本当の意味のように思った」それほど監督はこのクライマックスにかけていた。
記憶をたどってみたとき「嫌われ松子の一生」(2006年)のインタビューで監督はこんなことを話している。「人間そのものが常軌を逸した残虐さもある動物じゃないですか? 描くうえでその残酷さから逃げちゃいけないんですよ」
このコメントは今作にもそのまま当てはまる。監督の考えにブレはなかった。
個人的な感想を記せばこの作品は「意識と潜在意識の狭間」の映画に思えてならない。
人は自分のことをすべて分かっているようでいて一番、理解していないものだ。
それでも自分のことが知りたい。この狭間に、ふと我に返らせるような冷静さも狂気も同居している。いまの社会は歪んで肥大したこの狭間に支配されている一面があるのかもしれない。「意識の狭間」をテーマに考え始めたら、話はどんどん広がってあらぬ方向に脱線してしまいそうなので、またの機会に…。
※写真は中島哲也監督。女性映画の第一人者的存在ですが、本当は「大脱走」「ゴッドファーザー」のような「男しか出てこない映画が大好き」とのことでした。

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