野球殿堂記者投票への考察⑫(1970年度) 映画のモデルになった名将と「オレがルールブックだ」の名審判。特別は個性的な業績の3人を選出

Photo_2 11月25日に開票された競技者表彰は前年2位、3位の元中日監督の天知俊一が120票、1リーグ時代、そしてパ・リーグと名審判の誉れが高かった二出川延明が119票で当選ラインの113票をクリアした。3位以下10位までを出すと、③中上英雄74票、④浜崎真二67票、⑤千葉茂50票、⑥蔭山和夫44票、⑦呉昌征20票、⑧横沢三郎17票、⑨新田恭一11票、⑩飯島滋弥10票。

 天知は明治大学で二出川の1学年下。当時から野球規則に対して厳しく教わったという。現役時代は元捕手で大阪毎日新聞が主宰していた大毎球団でプレー。1929年に六大学の専属審判を務め、同年秋の昭和天皇が初めて神宮球場を訪れて観戦した早慶戦の球審を務めた。しかし、1931年春の慶明戦で、明大・八十川胖投手のボーク判定に端を発して明大応援団が乱暴狼藉に及び大混乱に陥った事件の責任をとって、専属審判6人が総退陣、天知もそれにならった。その後も甲子園大会では度々、球審を任されるほどの名ジャッジを見せていた。また、帝京商の英語教師を務めながら野球部監督としてフォークボールの神様、杉下茂を見いだした事でも知られ、二人の関係は杉下が明大に進学、そして中日の監督、エースとして1954年の日本一につながった。選手に対しての面倒見の良さは群を抜き、身銭を切って野球にのめり込む姿は名優・志村喬が演じた東宝映画「男ありて」(個人的には日本の野球映画の中でベスト3に入ると思っている)となって日本中のファンが知ることになる。なお、報知新聞には縁が深く一般紙だった戦前は記者として、戦後は野球評論家として健筆を振るい、メジャーにも精通した原稿は私も読者の一人で、ハンク・アーロンが通算本塁打でベーブ・ルースを抜いた時でも最高の外野手はウイリー・メイズの持論を曲げなかった。

 二出川は、大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)の好守の外野手として創立メンバーの一人。1935年の第1回米国遠征にも参加 しているが。職業野球がスタートすると新球団の名古屋金鯱軍の監督兼任選手となった。しかし、暴行事件で逮捕された事もあり金鯱監督を解任され、大学卒業 後続けていた審判の道に。歴代4人目の職業野球の審判となった。2リーグ分立後はパ・リーグ所属となったが、当時の連盟トップと合わずにリーグから飛び出 すも2年後復帰。その後は球界を代表する審判となった。西鉄ライオンズを3連覇させた名将・三原脩監督の抗議に対し、有名な「オレがルールブックだ」と一蹴 した話は有名だ。言動が派手なことで、その後物議を醸した事もあったが、彼のように毅然としたジャッジし続けた態度はまるでメジャーの審判のようだった。 我々の世代が熱中したテレビ番組「月光仮面」、「隠密剣士」の主役だった大瀬康一夫人の女優・高千穂ひづるの父親として覚えている方は少なくないだろう。

  特別表彰委員会は12月16日に開催。報知新聞に掲載されていた委員の名前を久しぶりに紹介しよう。鈴木龍二セ・リーグ会長、岡野功パ・リーグ会長、巨 人・佐々木金之助代表、評論家・大和球士(本名・安藤教雄)、札幌五輪組織委員で元野球記者の秋山如水、共同通信から石崎竜、ベースボール・マガジン社の 池田恒雄社長、社会人野球協会の山本英一郎理事、学生野球協会の外岡茂十郎副会長(ロッテの武田和義代表は欠席)。

 9名の協議の結果、 1894年刊行の「第一高等学校野球部史」の中でベースボールを初めて“野球”と訳した中馬庚。繊維問屋社長として財をなし職業野球のオーナーとなり、2 リー分立初年度のセ・リーグ覇者・松竹ロビンスも所有していた典型的な個人オーナーの田村駒治郎。米国にも何度か外遊する度に、渡米報告を野球雑誌に報告。現地で手に 入れたブルーブックは現在の野球協約のベースになったことでも知られる。直木松太郎は慶応大学野球部マネジャーとして務める傍ら、堪能な英語を駆使してルールブックを翻 訳して出版。また、スコアカードの記入を方法を独自に考案。彼の編み出した記入法が、日本プロ野球公式記録で使われている。

【注】敬称略。写真は1954年中日ドラゴンズが日本一になった直後に胴上げされた天知俊一。

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