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2011年11月15日 (火)

さようなら、戸田康文さん。

 共同通信社運動部のアマチュア野球担当記者・戸田康文さんが10日午後8時29分、すい臓がんのため入院先の横浜市内の病院で亡くなられた。40歳だった。神宮のプレスルームで誰よりも、学生野球を愛していた記者だった。心からご冥福をお祈りします。

 神宮や甲子園、あるいは都市対抗野球が開催中の東京ドームで、よく隣の席で一緒に試合を見た。ゲームを追いながら互いにウンチクを披露し、ブラスバンドの選曲や出来を批評しあった。

 横浜高校の生き字引で、年度を言えばその夏のスタメンがスラスラ出て来た。あれは03年の秋だったか、明治神宮大会を寒風吹きすさぶ第二球場で見ていると、戸田さんは横浜高校のグラウンドコートに身を包んでいたのだった。「それ、どうしたの?」「ネットオークションで落としたんだよ」。名も無き控え選手の刺繍入りだった。

 戸田さんのスコアブックは強烈だった。メモった談話はあまりにグジャグジャで、解読不可能だった。が、スコアは独特の角張った字で、明快に試合が再現されていた。あんなに力強く描かれたスコアブックは、これまでにも見たことがない。

 母校・明大を愛していた。携帯のメールアドレスには出身校の桜丘(神奈川)と明治のスペルが入っていた。明治が早稲田に勝つと、テンションが高くなった。10月27日、ドラフト当日は、広島にドラフト1位指名された野村祐輔投手の取材へと出掛けていった。入学時から特別な想いで見続けた右腕の新たな出発は、心が躍るひとときだったに違いない。

 東京六大学での囲み取材の前には、僕のお腹の贅肉をつねると、「俺の腹筋、触ってみて」とドヤ顔で言ってきた。割れていて、硬かった。鍛えられていた。それから数年後、病気との闘いが始まったと聞く。今月上旬、山梨で行われた秋季高校野球関東大会での取材が、最後の仕事になった。死の直前まで白球の行方を見つめ続けた。

 日曜夜、横浜市内で行われたお通夜では、戸田さんの記事が載った地方紙がスクラップされ、展示されていた。戸田さんは96年の入社以来、どんな小さな記事でも、自分の原稿をスクラップしていた。08年夏の甲子園を紐解く。横浜・筒香のアーチや慶応・田村の快投に、その筆は躍っていた。共同通信記者の原稿が地方紙に載ったとしてもほとんどの場合、署名はない。が、鮮やかな描写を読めば、分かる。それが他ならぬ、戸田康文の原稿である、と。

 通夜が始まる前、棺の中に眠る戸田さんと対面した。ネクタイ姿の戸田さんは、今にでも現場に出撃しそうな、いい顔をしていた。でも、瞳は閉じたままだった。あのギョロっとした、鋭くて優しい目は、もう二度と見られない。

 「加藤、原稿多くて、たいへんだな。じゃあ、お先に」。バーバリーのシャツにリュックを背負って、神宮のプレスルームを颯爽と撤収する姿が、忘れられない。

 戸田さん、もっともっと取材して、もっともっと原稿を書きたかったんだろうな。

コメント

亡くなって初めて、その人物がわかるんだよな。
知らない人だけど、全力で走った戸田記者のご冥福を祈ります。

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