鍛錬、そして進化。秋山翔吾を想う神宮の夜
交流戦が始まった。西武は15日、神宮球場でヤクルト戦だった。野球記者になって11年目を迎えるが、そのうち6年間をアマ野球担当として過ごした。当時、神宮球場には週に7日通うことも多々あった(休暇も東都大学リーグを見に行っていた)。高輪の自宅アパートから自転車のペダルをこぎ、外苑西通りを北上して神宮球場に向かう道のりが、とても好きだった。
秋山翔吾のスイングに衝撃を受けたのも、神宮の杜だった。2010年6月の全日本大学野球選手権。北東北大学リーグの代表として出場した強豪・八戸大の4番を務めていた。
準決勝の東洋大戦、1点ビハインドの2回だ。左腕・乾真大の高めストレートを振り抜く。打球は右中間スタンドで弾む同点ソロになった。エース左腕・塩見貴洋が力尽き、決勝進出はならなかったが、秋山の走攻守3拍子そろったプレースタイルには魅了された。打席に立つと、塁に出ると、あるいは打球が飛ぶと、胸がわくわくするのだ。その正体は、野球選手としての「華」と言い換えられるかもしれない。
この年は世界大学野球選手権が初の日本開催とあって、大学ジャパンの陣容にも注目が集まっていた。
春季リーグ戦では5割近い打率を残し、全国大会でも強肩強打に俊足を見せつけた秋山だったが、大学日本代表に選出されることはなかった。
同世代には早大の斎藤佑樹や大石達也、中大の沢村拓一、1学年下には明大の野村祐輔、東海大の菅野智之、東洋大の藤岡貴裕ら好投手がそろっていた。大学球界全体が一丸となってメダル獲得を目指し、キューバや米国と対峙する中で、秋山は日の丸を背負うことができなかったのだ。
あれから3年。試合前に神宮室内練習場で汗を流した後、本球場へと戻る秋山と話をしながら、あの頃の昔話になった。ここで乾から打った一発、今でもよく覚えているよ。それでも、大学日本代表に秋山君の名前がなくて、驚いたんだよね。
秋山は当時を振り返って、言った。
「今思うと、選ばれなくて良かったのかな、と思うこともあるんです。悔しくて、『なにくそ』と思って、その後ずっと練習していましたから」
大学野球選手として最高の栄誉を得られなかった後も、遠く離れた八戸の地で、秋山は鍛錬に明け暮れていたのだ。プロ野球選手になりたい。ドラフトで指名されたい。そんな夢を抱いて。
さらに思う。秋山にとって「プロ野球選手になること」はゴールではなく、スタートだった。だからこの25歳は今でも、いつも所沢の室内練習場で、打撃練習に没頭している。
QVCマリンでのロッテ2連戦を翌日に控えた7日、野手陣はオフだったが、秋山は当たり前のように球場に姿を見せた。そんな秋山を慕って、高卒2年目の永江恭平もマシン打撃に取り組んでいた。聞けば練習後、秋山の車に同乗し、幕張の選手宿舎へと向かうのだという。その日は永江の20歳の誕生日だった。永江は嬉しそうに言った。
「秋山さんには、ケーキをごちそうになったんですよ」
努力こそが成功への唯一の近道であると、後輩達へ、秋山の背中は雄弁に語りかけている。
神宮でのナイトゲームが始まった。2番に座った秋山は3回にレフト方向へ二塁打を放つと、4回には中前タイムリーを放ち、2安打1打点と躍動した。左翼席に陣取ったレオ党が大きな声援で、背番号55を後押しした。
チャンステーマとして鳴り響く清原和博の応援歌をBGMに、わたしはふと、夢想した。
数年後、この男は侍ジャパンの一員として、あの日届かなかった日の丸を、満を持して背負うに違いないと。
ストイックな勤勉さを兼ね備えた秋山は、サムライの名にふさわしいバットマンとして、世界の列強に立ち向かってくれることだろう。
私は大学時代の秋山くんは見ていませんでしたが、プロ1年目の彼を見て「この選手は近い将来必ず日本を代表する外野手になる」と感じました。
彼が順調に進化していっているのを観るのが楽しくて仕方ありません(≧∇≦)
彼の人一倍努力する姿勢の裏にはこういう経験もあったんですね。
良い記事をありがとうございます!
ちなみにこの15日も現地で観ていました♪
投稿: ルウ | 2013年6月 3日 (月) 01:04