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2011年1月21日 (金)

V9巨人の礎の一人、斎藤勝博さん死去(第591回)

 スポーツ報知の20日付け2面の片隅に亡者原稿が掲載された。元読売ジャイアンツ捕手だった斎藤勝博(まさひろ)さん。66歳。1962年に兵庫・福崎高から入団。同期には法政二高のエースとして夏春連続甲子園優勝に導いた柴田勲さんがいた。一軍出場全選手が網羅されていた日本プロ野球記録大百科プロ野球によると、25試合に出場しながら打席数0とあった。登録は捕手なのに、外野手出場が25試合。すべて守備固めなのか、と思ったが…。

 そこで1984年、巨人軍50年史を手伝った際に、セ・リーグからコピーさせていただいたジャイアンツのスコアカードをめくって見て驚いた。もしやと思っていたとおり25試合はすべて、相手先発投手が左右どちらか分からないため、先発オーダーの外野手の一人としての偵察要員だった。つまり、試合直前のメンバーに名を連ねながら1度もグラウンドでプレーすることのなかった一軍人生だった。もう一つの驚きは、1962年4月25日、大洋ホエールズ戦。実は斎藤さんが初めて一軍のメンバー表に入った日なのだが、当時セ・リーグを代表する公式記録員だった柳原基さんのスコアカードには「1番・8(中堅)」の欄に斉藤誠二のハンコが押されていた。何を勘違いしたのか2年目の斎藤投手だと思ったのだろう。翌日の本紙のボックススコアも斎藤(2)(当時はプロ入り年数を書いていた)となっていた。なお、清書のスコアカードでは修正されている。

1962年8試合、64年16試合、66年1試合と計25試合。いずれも守備位置別出場数は外野手25となっているが、当時は偵察要員で名前が記されただけでも、守備位置の試合数にカウントされていた。しかし、1977年から除外されるようになり、現在の集計システムではありえない出来事だったわけだ。もっとも、斎藤さんはイースタンリーグには出場(計24試合39打数11安打、6打点)している。現役選手として6年間で少な過ぎる感があるが、実は重要な役割を果たしていた。

ブルペン捕手としての役割だ。当時のジャイアンツの本拠地・後楽園球場のブルペンは一塁側のフェンス沿いに設けられていた。1973年に勝率1位のタイトルを獲ったことのあるジャイアンツOBの倉田誠さんは「斎藤さんはキャッチングのうまい人で、コントロールの悪いボクのボールを良く受けてくれました。一番思い出に残っているのは宮田さんの時、体を折り曲げるようにして低く構えていたのを覚えています。当時はレガース、プロテクターなどの防具をしないで受けていた時代だから大変だったはず」と思い出を語ってくれた。ベンチに退いてもすぐ、試合途中にブルペンに走っていったのだ。宮田征典さんが“8時半の男”として20勝を挙げ大車輪の活躍しジャイアンツV9のスタートとなったのが1965年。この年、斎藤さんは一軍、二軍ともに出場0に終わりブルペン捕手に専念、チームの“黒子”として欠かせない存在だった。

範子夫人によると、斎藤さんは1967年限りで退団しサラリーマン生活を送り、少年野球の指導なども行っていたという。また、球界を離れた後も宮田さんが亡くなるまで、家族ぐるみで親交を暖めていた。ジャイアンツのOB会も毎年のように出席。昨年暮れも病気を押して出席し、原辰徳監督や大物OBと再会するのを楽しみにしていた。淡河弘さん、所憲佐さんなど、その後ブルペン捕手としてスポーツ紙の紙面を飾る事も増えてきたが、斎藤さんは本紙の資料室にも切り抜きが無かったほどだ。ただ、その存在はジャイアンツの球団史の一つであることは間違いない。偶然にも享年は宮田さんと同じ66歳。心からご冥福をお祈りいたします。

【追伸】宇佐美徹也著「プロ野球記録大鑑」によると、打席0で年間最多偵察要員記録は南海ホークスの渡会純男捕手で1968年65試合(1971年、現役引退まで166試合連続)がある。それでも通算では191回、打席に立っている。先発投手は事前に発表される米大リーグでは、斎藤さんのようなケースはありえない。1球も投げずに登板1がついているのは、通算3142安打して野球殿堂入りしたロビン・ヨーントの兄、ラリー・ヨーント投手。アストロズ昇格直後の1971年9月15日ブレーブス戦、4-1とリードした9回に登板が言い渡された。ところが投球練習中にヒジを痛めて降板。その後は2度と米大リーグに昇格出来ずに“珍記録”の持ち主となってしまった。

コメント

巨人は「幹」になる部分と「勝ちながら育てる」部分の区分けをしっかりしていく姿勢があり、とっても好感が持てます。これからもフロントの詳細な分析と補強が不可欠。4番打者を10人取るような長嶋監督時代の補強はやってはいけない。

原監督は管理能力、算段が他球団の監督と比べてしっかりしている。どの球団でも中々生え抜きでそういう監督でてきませんよ。でも食材を用意するのはフロントの役目。

巨人が大きく変わった一つに「走れて守れる」選手がとてつもなく増えたこと。例えば、中日は守れない選手は起用しない方針を一貫している。

阪神は巨人軍の戦力を越えました。これは巨人軍にとって恥ずべきこと。もう巨人は12球団1の戦力とは言えない時代になっている。これはよいことかもしれないけれど、強い巨人を目指す側からすれば、フロントの育成と補強のアンバランスの怠慢といわざるえない。油断するとすぐに脆弱になり、どちらも欠けては成らないと思う。もう巨人は戦力的には球界の盟主ではない。残念ながら阪神に負けている。これをどうするか。大型補強というならナベツネさんも10億だしても25勝できる投手を連れてくると言ったのなら口先だけでなく本当に補強して。1点集中で残りは若手育成。本気で戦力分析して原監督に協力してやれ!と言いたい。連覇にもう少しこだわりを。慎之介とガッツとラミレスぐらい。終盤連覇する気あったのは。

OBも投手のスカウティングぐらいできるでしょう。OBの方も巨人が弱くなるのは許せないとおもわないのか?育成を重視するならスカウティングもしっかりやってほしい。

斎藤さんの原稿を書いたときに全く知らなかった話しを一つ。斎藤さんは何とプロ入りした1962年から5年続けてバッティング練習の際に捕手としてオールスター戦の裏方をやっていたことを1966年7月20日の2面に掲載されていました。
当時の記事を再録すると「若いバッティング投手は雰囲気に飲まれてしまう。そこをうまくリードして少しでもセの打者に打ってもらえればいい」と話していた。これに中日の主砲だった江藤慎一は「巨人は強いわけだ。舞台裏で働く人たちが、こういう気持ちでやっているんだから・・・・」。

斎藤勝博の甥です。
蛭間様の記事、大変嬉しく拝読しました。
生前、叔父は巨人時代の話を殆どしてくれませんでしたので、現役当時の様子が分かり、大変感激しました。
有難うございました。

叔父のお通夜の席に、堀内恒夫さんがご列席下さいましたが、ご挨拶も出来ず心残りでした。
もし機会がございましたら、宜しくお伝え下さい。
また、叔父が指導していた「栗橋ジャイアンツ」の選手たちもユニホーム姿でお通夜に来てくれました。
その中に今夏の甲子園で活躍した花咲徳栄高校の高橋投手が居たようですね。報知新聞の記事を拝読し、叔母とともに感激しました。

たかさん
コメントありがとうございました。
斎藤さんを始め、記録をあまり残せなかった
選手でもいろいろなドラマを残しています。
今年、同じ斎藤さんという方の
原稿も書かせていただきました。
今後も少しずつ、そんな選手を掘り起こしたい
と思っていますのでよろしくお願いします。
ちなみに私は白岡市在住です。

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蛭間 豊章

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