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2011年5月19日 (木)

MLBロゴのモデルだった?キルブリューさん(第619回)

Log  通算573本塁打のハーモン・キルブリューさんが、食道ガンのため17日に亡くなった。74歳だった。私は、王貞治さんが主催する世界少年野球大会の一 環として1991年8月に開催された日米OBオールスター戦で1度お会いしたことがある。千葉マリン(現QVCマリン)で行われた試合で、55歳ながら左 中間に二塁打を打った。試合後、「まだまだやれるね」。三塁側ベンチで他のOBに笑顔を振りまいていた。175センチの私とほとんど同じ背格好で、「そん な(小さな)体で500本以上の本塁打を打てたな」という思いが強かった。もっとも盛りあがった腕から肩の太さは比べものにならなかったが。

 米大リーグ(MLB)で通算500本塁打を放っているのは25人いる。彼らの身長を2008年版のESPN BASEBALL ENCYCLOPEDIA(この事典の最終版)で調べるとキルブリューさんの身長は5フィート11インチ(約180センチ)とある。もしかしたらこれは一本足打法で511本たたき込んだメル・オット(5フィート9インチ=約175センチ)に次いで低い方から2番目。もっとも、オットは、両翼が257フィート(約78メートル)しかない本拠ポログラウンズで全本塁打の63%に当たる323本を稼いでいるのだがら、実質的にはキルブリューさんは身長の低いスラッガーの代表(ほかに同じ身長での500本以上にはウイリー・メイズ、ミッキー・マントル、ゲーリー・シェフィールドの3人)と言ってもいい。

 アイダホ州出身で同州選出のハーマン・ウェルカー議員が1954年、当時のワシントン・セネタースと5万ドルで契約させた。当時は「4000ドル以上で契約した選手は2年間MLBのロースター入りさせなくてはならない」という規則があり、18歳の誕生日の6日前にデビューしたものの最初の2年間はわずか47試合の出場だけ。その間、マイナーでのプレーが出来なかったこともあってセネタースのレギュラーを掴むまで6年の歳月がかかった。しかし、1959年に三塁の定位置を掴むといきなり42本塁打でタイトルを獲得。通算6度の本塁打王となる第一歩を記した。1961年にチームはミネアポリスに移転しツインズとニックネームを変更。新しいフランチャイズでのスターとなった。打率3割こそ1度もないが勝負強さで3度の打点王を含め100打点以上が9度。選球が良く1559四球で通算打率は2割5分6厘だったが、出塁率は3割7分6厘。この数字は昨年までの10年間で打率3割3分1厘を誇るイチローとまったく同じだ。

 もちろん、自慢は怪力で現在より飛ばないボールだった時代にもかかわらず1967年6月3日に本拠地メトロポリタン・スタジアムで打った本塁打は520フィート(約159メートル)。その打球が当たった左翼二階席のイスには記念のペイントが施されていた。後に球場が閉鎖され、跡地に全米最大のショッピング・モール“モール・オブ・アメリカ”が完成したが、その建物の壁に今でもそのイスは飾られている。また、かつてあったタイガー・スタジアムの左翼二階席の屋根を越えたのも彼が第1号だった。相手を長打一発でたたきつぶすのと名前のスペルをもじってニックネームはキラー(殺し屋)だったが、性格は温厚で22年間で一度も退場処分がなかった事も全米では有名な話しだ。

 1969年にMLBはプロ野球誕生100周年を記念してロゴマーク(写真)を作ったが、発表当初からあのモデルはキルブリューだという声が多かった。ロゴを制作したジェリー・ディオールさんは「皆がそういうが、あのデザインにはモデルはいない」と否定している。しかし、頭に浮かんだ打撃フォームがそうだとしたら、それだけ印象が強かったからに他ならない。ちなみに1969年、キルブリューさんは本塁打と打点の二冠王に輝き、ただ一度受賞したMVPシーズンだった。ご冥福をお祈りいたします。

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