ブログ報知

スポーツ報知ブログ一覧

« 私と「マネーボール」 | メイン | 日本シリーズと孫オーナーの大はしゃぎ(第650回) »

2011年11月13日 (日)

1球の大切さを知って全国制覇の大宮工・吉沢投手(第649回)

Aaa_2  1968年センバツ高校野球優勝の大宮工のエースだった吉沢敏雄さんとお会いする機会があった。センバツ初出場だった大宮工の快進撃に、当時の埼玉県は沸いた。中でも私のような中学の野球部員は春休みの練習をさっさと切り上げて、テレビ中継で応援。埼玉県勢初の日本一となった吉沢さんは、我々中学生にはあこがれの選手となった。夏の甲子園では2回戦で敗れたが、市川崑監督がメガホンをとった全国高校野球選手権第50会大会を記念して制作された記録映画「青春」でも、クローズアップされていた。私のブログ(市川崑監督の「青春」を利用する朝日新聞(第402回))を見て、DVDの存在を知った吉沢さんが連絡をとってくれたのがきっかけだった。

 もちろん、話題はセンバツ大会。中でも、後にプロ野球で通算251勝する東尾修さんが「4番・投手」に座る強豪・箕島高との準決勝は、毎日新聞が60回大会を記念し て出版した「選抜高等学校野球大会60年史」の名勝負にも選ばれている。薬の副作用(風邪薬とひじの痛み止め薬)で40度近い高熱を発し、前夜入院。病院 から甲子園に直行して向かったマウンドだった。序盤に3点を先行されたが、打線の援護で逆転。2点リードの9回2死二、三塁で迎えたのが「4番・東尾」。 この時、吉沢さんはベンチに戻り、山崎小二郎監督に「勝負します」と言ってグラウンドに戻った。

 「本塁打はまず出ない。(タイムリーを)打たれても同点。まずは見せ球の低めへのスローカーブ。そして内角への直球と組み立てていました」。一方の東尾 さんは試合後、吉沢さんがベンチに戻るのを見て「敬遠されるのかな?敬遠されたら勝てない」。見逃せばボールぎみのスローカーブに手を出して遊ゴロとな り、ゲームセット。前年の秋から肩、ひじを痛め、甲子園に来てカーブの精度を高めていき、そして初めて使った絶妙なスローカーブだった。吉沢さんは後年、 東尾さんの思いを知り「あのスローカーブはまさに心理のあやの一球だった」と思った。

 そのカーブには強い思いがある。勝てば甲子園初出場となる前年の西関東大会決勝の大宮高戦。1-1の同点で迎えた8回、翌年東映フライヤーズ(現北海道 日本ハムファイターズ)にドラフト1位指名される吉田誠外野手に、「納得いかないまま投げた(1ボールからの)カーブ」を決勝本塁打された。捕手のカーブのサイン に2度首を振ったが、それでもサインはカーブでそれにベンチからの指示の仕草。内角への速球を投げたかった吉沢さんが気乗りのしないまま投げた1球だっ た。甲子園行きを逃した3年生へ申し訳ない思いもあって、その後は自分で「納得する(意志ある)ボールを投げる。1球たりとも悔いの残らないよう思いを込 めて投げること」を胸に刻んだ。

 準々決勝の平安高戦に続く大金星となった大宮工は、決勝戦の尾道商を破って、埼玉県勢初の日本一(その後も出ていない)。報知新聞を購読して、発熱をお してのマウンドは記事を読んで知っていた。しかし、前年夏の大会決勝の1球が、センバツ優勝につながっていくという話に改めて、聞き入ってしまった。この 大会の大宮工を、当時の報知新聞アマ野球評論家の成田理助さんは「個性を生かして融通性のある攻守。力と技を使い分け、粘り強く抜け目ない」と評してい る。

 もう一つ、教えてもらったのが1967年の埼玉国体でのエピソード。山崎監督が埼玉県高野連理事を務めていた関係で、高校野球会場となった大宮県営球場 のスコアボード係をやっていたそうだ(その大会は大宮高が優勝)。そこからグラウンドを見ながら「(同じ高校生なのに)うらやましいな」と思ったそうだ。 また、ファンレターが山のように来た、とも笑っていった。吉沢さんは、その後内野手に転向し、慶大、東京ガスでも活躍。定年となった今、「今度は高校野球 を教えたいですよ」。60歳になってもまだまだ昔の面影を残す吉沢さん。今後はグラウンドで“1球の大切さ”を教える姿が見られるのではないだろうか。

コメント

私も大宮工を応援していました。吉沢さんは今なら斎藤祐樹のようなクレバーなピッチャー。本当に懐かしいです。蛭間さんの母校も、吉沢さんの母校も甲子園から遠ざかって久しいですね。あの時代を懐かしむだけでなく、現役選手の奮起に期待したいと思っています。

大宮工、吉沢投手!
とても懐かしく思い出しております。
蛭間さんの文章読みながら涙が出てきました。
野球大好き少女だった私の甲子園初アイドルでした。
マウンド上での仕草や爽やかな笑顔は今でもしっかりと覚えてます。もう一度あの頃の吉沢投手に逢いたい!
市川昆監督「青春」の発売はないのでしょうか。。。
山のように来たファンレターの1枚はおそらく私です!
是非、高校野球の監督さんやって欲しいですね!
蛭間さんどうも有難うございました!

12月23日のマスターズ甲子園に大宮工が帰ってきますが、当時のメンバーは出るのでしょうか? 期待しております。

気力と根性とチームワークが見事に結実した大宮工の初陣制覇だったわけですね。箕島の尾藤監督はまだ当時25才の若さでしたが、‘東尾らの代が長い指導歴で箕島最強のチームだった’と仰られていたような。。。強い埼玉勢も全国を制したのはその1回のみなので、是非今年こそ久々に頂点を極めて欲しいと願っています。

吉沢敏雄さんが28日、埼玉県上尾市の自宅で膵臓がんのため亡くなられました。64歳でした。
通夜は12月2日18時、告別式は3日11時半。ともにさいたま市岩槻区南辻114の薬師記念館(☎048―757局0011)。

さよなら、吉沢さん。
天国で平安ー法大とライバルでもあった池田信夫さんと
どんな話をしているのでしょうか。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
なお、吉沢さん死去については
http://labola.jp/diary/1168105012
http://craig.hamazo.tv/e5780995.html
でファンの方が書かれております。

吉沢敏雄さんの告別式に出席させていただきました。
優勝バッテリーとして捕手を務めていた長谷川様の弔辞は、素晴らしい内容。そして亡き吉沢さんの心情を表しておりました。
慶大で三遊間を組んだ山下大輔さん、大学時代からの友人でセ・リーグに勤務されておられた薙野正明さんも来ておりました。
ご家族のかたと初めてお会いして、
吉沢さんは人生の優勝投手でもあったと感じました。
改めて、哀悼の意を表します。

蛭間さま、ご無沙汰しております。夫 吉沢敏雄の葬儀に際はお忙しい中ご参列いただき、深く感謝しております。吉沢が逝ってから5カ月が過ぎました。まだまだ主人がいなくなってしまった事に実感がわかない日々を過ごしていますが、いつまでも悲しみ落ち込んでいても仕方がないと少しづつ前を向き歩き始めました。そのひとつとして蛭間さんが持って来て下さった新聞のコピーに目を通しファイルをする事を始めましたが、貴重な資料の々に改めて驚き感謝の気持ちでいっぱいです。。
子供達にそして孫達に父親として、じいじとしての吉沢敏雄の青春のきらめきを伝える事ができる貴重な資料となると思います。
本当にありがとうございました。
私事ですが、子供達と孫達と甲子園球場に行き、甲子園歴史館の高校野球コーナーで大宮工業の展示を見てきました。私にとっては吉沢と初めて出会った場所なので特別に感慨深い甲子園球場でした。

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://bb.lekumo.jp/t/trackback/235990/27442761

このページへのトラックバック一覧 1球の大切さを知って全国制覇の大宮工・吉沢投手(第649回):

サイト内検索

蛭間 豊章

ヒルマニアロゴ

最近のトラックバック

見出し、記事、写真の無断転載を禁じます。Copyright © The Hochi Shimbun.