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2013年7月20日 (土)

甲子園を沸かせたもう一人の松井がいた(739回)

51e8f23b_4 今年の野球界は松井がキーワードだ。高校野球の地方大会がたけなわとなっているが、神奈川・桐光学園の松井裕樹投手に注目が集まっている。昨夏の甲子園1回戦、今治西高戦でいきなり大会新記録の22三振を奪って一気に全国区となり、昨年の秋からスポーツメディアが一挙手一投足を報道。神奈川大会でも同校のカードはファンが押しかけているという。

 

  もう一人は38歳の若さで国民栄誉賞授賞の松井秀喜氏だ。日米通算507本塁打を放ち、読売ジャイアンツで日本一3回、ニューヨーク・ヤンキースで世界一1回。日米の最高の舞台でMVPを受賞した男だ。星稜高校時代に甲子園で4本塁打。1992年夏の明徳義塾戦には1試合5“敬遠”されて話題にものぼった。引退した今季は、ヤンキース1Aの打撃投手をしたり、米大リーグのオールスター戦のNHK―BS1の解説をしたことが大きく報じられた。

 

 実は松井姓で甲子園を沸かせた大選手がもう一人いる。岐阜商の松井栄造選手だ。戦前の中等学校野球大会では中京商の吉田正男投手が、夏の大会に3連覇。甲子園通算22勝しているが、黒星も3つ(もう1試合は4回降板)ある。ところが、松井は13試合に登板して10勝0敗。センバツ2度、選手権1度と計3度優勝投手になり、敗れた2試合ともに他の投手に黒星が付いていた。

 

 2年生になった1933年、まだ14歳で甲子園デビュー。初戦の静岡中には1番・中堅で出場も途中マウンドに上がって1回2失点で再び中堅に戻り、打っても5打数3安打。2回戦の鳥取一中に完投勝ち、決勝の明石中相手には1-0完封で優勝投手に輝いた。2年後のセンバツでは全5試合を完投し再び優勝(準決勝の愛知商戦は激しい雨の中、6回に7点を許すも裏が終了せずにコールドゲームが宣告され、均等回ルールで1―1。再試合の末に勝利)。そして迎えた1936年夏、愛知勢に阻まれていた岐阜勢として初めて出場すると、後に毎日オリオンズして第1回日本シリーズで2勝する野村武史が準々決勝まで先発。準決勝・育英商、決勝戦では平安中相手に、ともに1失点で完投勝利を挙げ、悲願の夏の甲子園優勝を果たした。快勝が続いただけに優勝インタビューの第一声は「苦しかったのは東海大会でした」。過去3年決勝、決勝、準決勝で敗れ去った思いが去来していたようだった。

 

 速球とドロップを武器に甲子園大会で1試合16奪三振をマークしたピッチング。そして2005年大阪桐蔭の平田良介(現中日)に破られるまでの1試合最多塁打記録(本塁打と3三塁打=13塁打)を残したバッティングと、今ならさしずめ北海道日本ハムファイターズの大谷翔平のような二刀流選手でもあった。その後、早稲田大学でも外野手として活躍。攻守に洗練されたプレーで神宮でもファンを沸かせた。明大出身で戦後のプロ野球をけん引した“青バット”の大下弘は「松井さんは神宮の華だった。当時の六大学を語るとき、どうしても忘れることの出来ない選手です。蔭ながら尊敬していました」と語っているほどの選手だった。戦時で繰り上げ卒業後、都市対抗の雄だった藤倉電線に入社もわずか10日間だけの会社員生活で応召。都市対抗には出場することもなく、中国戦線に赴き1943年5月28日に敵の銃弾を受け24歳の若さで亡くなった。

 

 彼の功績などを讃えて、早稲田大学資料センターが昨年3月、学内キャンパスで企画展「戦地に逝ったワセダのヒーロー松井栄造の24年―」が開催された。今年7月2日からは出身地の浜松市でもクリエート浜松開館25周年記念として開催(21日)。また、SBS静岡放送では「希求~ある野球人が投じた一球」のテレビ番組を制作し5月に放送したと、浜松在住の方が教えてくれた。岐阜長良川球場の正面玄関には同氏の像が建っている。なお、1936年夏の甲子園メンバーでは、松井の他に捕手の加藤三郎、二塁の長良治雄、三塁・加藤義男、遊撃・近藤清各氏も戦地で亡くなっている。毎年の事だが、プロ野球界、そしてアマチュア球界。そして日本の国民みんなが、志半ばで亡くなった先人に感謝しなくてはならない。

 

写真は昨年、早稲田キャンパスでの企画展で配られた小冊子

コメント

僭越ながら2012年9月9日付愚ブログ「最も無名の最強打者」から転載させていただきます。

 岐阜商業からは松井栄造が昭和18年5月28日、中国戦線における肉弾突撃で手榴弾の破片が鉄カブトを突き破り戦死。昭和20年4月6日、加藤三郎(岐阜商業では松井とバッテリーを組み明大に進む)は百里基地を出発、一旦機関故障で戻るが再出撃、今度は戻ってくることはなかった。加藤が特攻で散った直後、近藤清(岐阜商業から早稲田に進んだ名遊撃手)は岐阜商業の後援会長であった遠藤健三を訪ね、直立不動のまま加藤の特攻を報告する。「加藤三郎の伝言をお伝えにまいりました。一昨日夜、加藤三郎は元気よく突撃しました。加藤三郎はこれから行ってまいります、とのことでした。」

 「で、近藤、お前はどうするんだ。」

 「私は明後日の夜出発します。本日はお別れのあいさつにまいりました。」


 加藤義男(岐阜商業から満鉄に進んだ三塁手)はビルマに散った。岐阜商業から慶大に進んだ名二塁手長良治雄も沖縄の海に散っている。

 一人生き残ったファーストの森田定雄は、私は「最も無名の最強打者」であった考えています。森田定雄が甲子園とプロ野球で残した実績を客観的に評価していただければ、誰でもそう考えるのではないかと思っています。


shokuyakyu様
ありがとうございました。

追伸させていただきます。

戦争で亡くなられた方々に対する哀悼の気持ちはもちろんですが、ダイヤモンドを囲った仲間たちのなかで一人生き残った森田定雄氏のお気持ちを考えざるをえません。

転載させていただきました愚ブログは、1979年8月15日臨時増刊「週間朝日 甲子園大会号 追悼-戦火に散った名選手たち」等を参照させていただいたものです。

蛭間さん、松井栄造の紹介ありがとうございます。
8月17日(土)TBS報道特集にて
「戦場に散った伝説の野球人」
として放送されます。
午後5:30~6:50

番組の後半のようなので5月にローカル放送された内容の
短縮版かもしれません。

どうぞご覧になってください。

昨日の松井栄造さん関連の放送で、yahooで検索が急上昇。しかし、ウィキペディアの、選抜で史上最多の11勝という記述にはあきれる。登板していない試合が3度、登板しても他投手に白星がついたのが1度で実際は7勝。皆さんもできるだけチェックしながらウィキペディアと付き合いましょう。

森田定雄氏の名が登場しておりましたが、森田は松井栄造氏の小学校(浜松元城小)の、後輩でも在ります。

また、故・大野木浜市氏(元城小高等科卒~中京商業)に生前お伺いしましたが、「栄造はね、中京に来る筈だったんだよ。」、「高等科が、あと一年残って居るから、元城の全国三連覇を狙いたい。そして中京へと言っていた。」、「次に元城のグランドへ言ったら、栄造が居ないんだよ。部員に聞いたら、岐阜へ行ったと聞かされた・・」
松井栄造氏が中京商業へ進んでおれば、中京の「全国六連覇」も可能だったのかも知れませんね。

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