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2015年6月22日 (月)

初のサイ・ヤング受賞者ドン・ニューカム、ロング・インタビュー(上)

Photo_3 1956年、メジャーリーグのフォード・フリック・コミッショナーは前年11月に亡くなった通算511勝をマークしたサイ・ヤング投手の功績を称え、年間最も有優秀な投手を両リーグで1人(現在はリーグ別)選出することになった。第1号の受賞者はドジャースで両リーグ最多の27勝をマークしたドン・ニューカム投手だった。同投手は1947年にいわゆる「カラーバリアー」(人種の壁)を打ち破ったジャッキー・ロビンソンから2年後の1949年にメジャーデビュー、193センチの長身から投げおろす剛速球でいきなり17勝をあげオールスターに選ばれたばかりでなく新人王も獲得。1951年には黒人投手初の20勝、52、53年は兵役でプレーの中断を余儀なくされたものの、復帰後は55年に21勝をあげチームにドジャースの創設以来初のワールドチャンピオンに貢献するなど、メジャー通算149勝。打っても通算15本の本塁打を放った強打の持ち主でもあり、1962年中日ドラゴンズに外野手として来日。81試合ながら12本の本塁打を叩き込んだ。1年限りで帰国したが、その後はドジャースのフロントとして地元のコミュニティー活動に従事。89歳の高齢ながらオーナー特別補佐として本拠ドジャー・スタジアムに毎日のように訪れているレジェンドだ。そんなニューカムさんを本紙ロサンゼルス在住の盆子原浩二通信員がロング・インタビューした。

 

55853f33_tg4_2 ―ニューカムさんが日本でプレーされたのは1962年。私が9歳の時でした。正直にいいますと、ニューカムさんもドビーさんもこれほどメジャーで実績のある方とは存じ上げないでテレビで、強打を楽しませてもらいました。今日は改めてメジャーでの実績、社会への貢献、日本でのことなどお聞かせください。1926年6月14日に米東海岸のニュージャージー州マディソンのお生まれとお聞きしましたが、野球を始められたのはいつ頃だったのでしょうか?

 ニューカム「私が野球を始めたのは、ニュージャージーの高校(ジェファーソン高校)へ入ってからです。そしてニグロリーグに入ったのが1944年で17歳の時でしたよ。エファ・マンリー女史と夫のエイブがオーナーをしていたニューアーク・イーグルスという球団でした。(伝説の大投手)サッチェル・ページ。そして(通算800本塁打を放ったという強打の)ジョシュ・ギブソンらの素晴らしいプレーヤーともプレーしましたよ。17、18歳とニューアーク・イーグルスでプレーをして、19歳の時にジャッキー・ロビンソンやロイ・キャンパネラと一緒になってドジャースと契約。「カラーバリアー(人種の壁)」を打ち破っていくのを手伝ったというわけです」

 ―そのカラーバリアーを打ち破ったジャッキー・ロビンソンさんについてお聞かせください?

 「もちろんジャッキーは本当に偉大な人でした・・・。一緒に野球をやっていくのに理想的な人でした。ゴルフも上手かった。そして乗馬も・・・卓球もね。(ドジャースと契約した)1946年から始まって、1947年に彼はドジャースでプレーし始めて、それから2年後の1949年に一緒に(メジャーリーグで)プレーをするようになったんです。我々はいつもいい友達同士で、一緒にゴルフをしたり、彼はすごく上手いゴルファーでしたが、私はいわゆる楽しむゴルフでしたが(笑)」

 ―ニューカムさんより1年早く、1948年にメジャーデビューされたロイ・キャンパネラさんについての印象は?

 「これは私の意見ですが、現在までのところ野球の歴史上最高のキャッチャーだと思います。彼は10年間ドジャースでプレーしてそのうち3度MVPを獲得しているわけですから・・・明らかですよね。そのことは彼が立派なキャッチャーとしてだけでなく素晴らしい強打の持ち主だということを証明しています。私にとって幸せだったのは、私が1946年にマイナーでスタートしたときに彼と一緒だったということです。(マイナーB級リーグの)ニューハンプシャーにあるナシュア・ドジャースで我々は優勝したんですよ。1946年に彼は監督をやっているんですよ。後に野球殿堂入りする名称ウオルター・オルストン兼任監督が急きょ試合を離れることになって、彼を監督に指名したんです。ロイは、一緒に戦っている試合で私をピンチヒッターに使いましてね、私は一人走者をおいてホームランを打ったんですよ。ロイのために3-2で勝ちましたよ。だから彼はプロ(野球機構)の野球の歴史の中で初めての黒人監督ということになりますね」

 ―もうひとり、一緒に中日入りしたラリー・ドビーさんは?

 「そうですね・・・ラリーとは、1946年のオフに一緒に旅をしてアメリカ中を周りましたよ。そして我々は非常にいい友達になりました。いわゆるベストフレンドですね。彼と私はものすごい距離を一緒に旅したと思います。共に野球選手として一生懸命に頑張りました」

 ―メジャーで現役引退した後、どうして日本へ行かれたのですか?

 「1962年、野球から引退していました。ところがニュージャージーでナイトクラブのビジネスをやっていたある晩のことですよ。私はクラブで座ってテレビを見ていたんです。そうしたら日本からの人たちが入ってきて、私に聞くのです。通訳の女性が「ドン・ニューカムに会うのを手伝ってくれないか?」ってね。「あのね・・・私がドン・ニューカムだけど、何か?」って言ったんだよ。彼女は「私が(彼らの)通訳です。あなたに日本へ行って野球をしてほしいのです」と言ってきた。「私はもうすでに野球を引退していて、もうピッチングはしたくないんだ」って言ったら、彼らは「我々はあなたにピッチングをして欲しいとは思っていない。だから私は「私に何をして欲しいんだ?}って聞き返した。そしたら彼らは「純粋にあなたにこの国(アメリカ)の代表として日本でプレーしてほしい。そして初の真のメジャーリーガーとして日本のチームでプレーして欲しい!」って言ったんだよ。そして私はその第1号になった。すぐに契約を結んだよ。彼らは日本へ行くために35000ドル(当時の日本円で126万円)を支払ってくれたんだ、そして私と家内の経費もね・・・。そして名古屋に着いたら、新しい家を用意してくれて、新車もくれたよ。名古屋では大殿様(ビッグキング)のようだったね。日本では自分心底楽しんだよ。日本が大好きだよ。名古屋も大好きだよ。日本の人たちも大好きだよ。そして大親友のラリー・ドビーもね。彼は私が行ってから一ヵ月半位してから来たと思う。

 ー当時ドラゴンズには与那嶺要さんがいらっしゃいましたよね?

 「彼は日本で(バッテイング)チャンピオン(首位打者)だった人だからね。中日でコーチをしていたんだ。彼は我々のために何でもしてくれたんだ。通訳もしてくれた。金銭面のことや、ラリーや私のためにいろいろとね。彼は本当に素晴らしい人間だった。でも(2011年に)亡くなってしまって本当に残念だね。彼のことは本当に好きだったし、彼の娘さん達も、そして彼との思いでも・・・。この指輪も(宝石店を営んでいた)彼のところであつらえたんだ」

 ー当時の日本人選手で思い出に残るプレーヤーはいますか?

 「もちろんサダハル・オーそしてナガシマ!いちどナガシマの前にセーフティーバントを決めたことがあるよ。メジャー時代も一生懸命練習していたんだよ。結局日本で私の野球人生はお終いになったんだ。日本は大好きだねえ。日本の人たちにもぜひ知って欲しいんだ。私がどれだけ日本のことを愛しているかどうか皆さんに伝えてください。(感極まる表情でした)」

 (下)に続く

【写真上】インタビューに答えるニューカム夫妻【下】1962年には中日ドラゴンズに外野手としてプレーしたドン・ニューカム

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蛭間 豊章

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