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2015年8月 2日 (日)

【高校野球100年】第4回 元祖アイドル太田幸司 汚れたままのユニホームで再試合

 高校球児は、昔から坊主頭でごついイメージ。それを一変させたのが母親が白系ロシア人の三沢高・太田幸司だった。「騒がれるようになったのは(69年の)3年夏。それも勝ち進むごとに、甲子園の出口でもみくちゃになり、決勝では皆と違う出口でした」と振り返る。松山商との決勝戦で初の延長18回引き分け再試合の末、敗れたことで悲劇のヒーローとしてより火がつき「ファンレターが毎日段ボール箱で届いた」と笑う。

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準優勝し甲子園の土をスパイクケースに入れる三沢・太田投手

 もちろん、球威の面でも当時の高校球界屈指だった。米軍基地のある三沢に住んでいたことで、基地内にあるリトルリーグの天然芝の上で小学生の時から硬球も経験した少年は三沢高で1年秋からエース。快速球で68年の甲子園デビュー戦、鎮西を内野安打1本に封じた。69年選抜で2回戦敗退も延長15回投げ抜いていた。しかし、夏の快進撃は当時の女学生の心を奪っていった。初期のプロ野球で活躍し1938年秋に初の三冠王となったアマ野球評論家の中島治康氏が「太田はたくましくスマート。20年近く高校野球を見てきたがこんな人気は初めてである」と驚く64イニング、942球は、2006年早実・斎藤佑樹に抜かれるまで記録だった。

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 太田は、再試合で4点を許し敗れたが「相手は真っ白なユニホームなのに、うちは前日のままの汚く重いユニホーム」。野球名門校との違いを感じたという。大会後、高校全日本としてブラジル遠征では完全試合までやってのけ、帰国した羽田空港には午前6時にかかわらず女学生200人が集まった。そのフィーバーぶりは近鉄入りの翌年も続いた。

 その後は大会ごとに”アイドル”が生まれた。1970年は選抜優勝の箕島・島本講平、74年は鹿児島実・定岡正二、またこの年から3年間は親子鷹、東海大相模・原辰徳が、甲子園のギャルを酔わせた。そして、甲子園史上最強のアイドルが誕生する。80年早実の1年生荒木大輔だ。元リトルリーグ世界1の経験を持つ右腕は、甲子園で44回1/3連続無失点で決勝進出。しかし、太田同様に横浜高に敗れた。しかし、その後も大舞台に出続け優勝こそ出来なかったが、女性ファンを虜にした。(8月2日付スポーツ報知紙面より)

 【豆知識】大幅に減った完封 江川登場と金属バット

 1973年、作新学院・江川卓が登場。日本中の注目を浴びた剛球右腕は、センバツで60奪三振の大会新記録で4強入りも、夏は2回戦で銚子商に敗れた。記念大会だったこの年は47試合中26試合が完封の投高打低。この大会も一つの契機となり、高価なバットが折れると経済的負担が大きいという理由で、74年夏の選手権からアルミ合金製のバットが解禁となった。その結果、完封試合は33試合中12試合と大幅に減った。

夏の大会決勝戦と大会代表選手(第51回~64回、★は殿堂入り)
球場大会(年度)優勝スコア準優勝代表選手
甲子園 第51回(1969) 松山商 0〈18〉0 三 沢 太田幸司(三 沢)
決勝再試合 4-2
第52回(1970) 東海大相模 10-6 PL学園 新井鐘律(PL学園)
第53回(1971) 桐蔭学園 1-0 磐 城 梨田昌孝(浜 田)
第54回(1972) 津久見 3-1 柳 井 掛布雅之(習志野)
第55回(1973) 広島商 3-2 静 岡 江川 卓(作新学院)
第56回(1974) 銚子商 7-0 防府商 定岡正二(鹿児島実)
第57回(1975) 習志野 5-4 新居浜商 原 辰徳(東海大相模)
第58回(1976) 桜美林 4〈11〉3 PL学園 小松辰雄(星 稜)
第59回(1977) 東洋大姫路 4〈10〉1 東 邦 石嶺和彦(豊見城)
第60回(1978) PL学園 3-2 高知商 津田恒美(南陽工)★
第61回(1979) 箕 島 4-3 池 田 香川伸行(浪 商)
第62回(1980) 横 浜 6-4 早 実 愛甲 猛(横 浜)
第63回(1981) 報徳学園 2-0 京都商 金村義明(報徳学園)
第64回(1982) 池 田 12-2 広島商 荒木大輔(早 実)

【注】カッコ内数字は延長イニング

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蛭間 豊章

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