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2016年2月17日 (水)

野球殿堂記者投票への考察⑦(1965年度の2)“佐伯天皇”が史上唯一の殿堂入り辞退

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 12月22日に開催された特別表彰委員会。委員会議長は安藤教雄(大和球士)、委員は秋山如水、鈴木龍二、戸沢一隆、三宅大輔、外岡茂十郎、松浦晋、武田和義(東京オリオンズ代表)、本田竹蔵(社会人野球)。欠席=広瀬謙三、オブザーバー=宮沢俊義、金子鋭(コミッショナー委員会)。出席した9人中7票獲得で当選。また、従来の条文、2名を限度とする、が削除された。各委員が持ち寄った次の15人で投票が行われた。景浦将、鈴木惣太郎、井上登、赤嶺昌志、佐伯達夫、直木松太郎、内村祐之、西村幸生、水野利八、宮口竹雄、守山恒太郎、中河美芳、宮武三郎、田部武雄に、競技者投票で3位だった、どういうわけか苅田久德も入っていた。なお、前年までは特別表彰委員も候補者に名を連ねていた事もあったが、この年から候補者から外れている。

 その結果、プロ野球創設時からのファンで後にコミッショナーも務めた井上登、中等野球、高校野球の発展に尽力し、アマチュアリズムを貫き通して後に“佐伯天皇”とも揶揄された佐伯達夫(当時は高野連副会長)、そして高松商―慶大。プロ野球では今ひとつだったが、戦前アマ球界最高の打者と称された故宮武三郎、大阪タイガース創設時の強打者で投手も務めた故景浦将の4人を選出した。

 80歳ながら壮健だった井上は「よく働いた選手が入るところだと思った。功績ならプロ野球を宣伝したことぐらいですね」と笑顔を見せた。ところが72歳の佐伯は、殿堂入りの知らせに対して「わしは何にも知りません。まだはっきり聞いとらんのに、感想も何もあったもんじゃない。わたしはまだ生きている身で、欠点ばかりの人間。本当に入ったあと失敗でもしたら取り返しのつかないことになる」と話し、最後まで写真撮影も固辞した。そして、翌年の2月21日に、「球界最高の名誉である殿堂入りに選ばれたことには感謝しているが私自身、広く日本の野球界にはそれほど貢献したとも考えていない。私が選ばれては先人に申し訳ない。殿堂入りは生死にかかわらず功成り名を遂げた人のものだ」とのコメントとともに正式に辞退を表明した。

 それを受けて25日に博物館館長でコミッショナー委員長でもある宮沢俊義以下、首脳5人が協議。本人の意思を尊重して辞退を了承し、博物館への掲額を取り消した。同時に辞退理由でもあった生存者表彰には、慎重を期すことを確認している。推薦規定にも問題があるため、規定改定を討議したが、この日も委員のうち欠席者が5人もいたという失態もあって結論が出なかった。翌年の10月22日に特別表彰の選考範囲(理由)にあった「組織または管理に関して野球の発展に顕著な貢献をした者または貢献しつつある者」の「貢献しつつある者」が削除されることになる。なお、佐伯は1980年に亡くなり、直後1981年特別表彰で殿堂入りしている。殿堂入りが決まってからの辞退者は佐伯ただ一人だが、亡くなった2年後の1983年に殿堂入りすることになる元一高の名投手でプロ野球コミッショナーを務めた内村祐之も、生前は候補になりながら固辞し続けていたという。

【注】敬称略。写真は史上ただ一人、殿堂入り後に辞退を申し出た佐伯達夫(1979年の甲子園大会)

コメント

あの佐伯達夫さんなら、言いかねないですね。
殿堂の認識不足は佐伯さんではなく、
当時も今も球界のトップ、そして選手では
ないのでしょうか。

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蛭間 豊章

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