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2016年3月13日 (日)

46年前より深いのか野球賭博の闇(第836回)

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 複数の読者の方から、巨人系スポーツ紙の報知の記者だから野球賭博に関して書かないのですか、という質問が飛び込んできた。正直言って書きづらいのが一つ。そして、ネットライターの方々が早々と自らのポジションで書かれているのを見てしまうこと。どうしても同じような意見にならざるを得なかった場合、文才のない当方は二の足を踏んでしまっている。そんなことも相まって、昨年末の野球賭博、そして清原和博の覚醒剤問題は、このブログで触れなかった。

 しかし、そんなコメントをいただいたので、高校2年生で遭遇したプロ野球界の「黒い霧事件」当時の思い出を書いてみる。1969年10月、読売新聞と報知新聞が西鉄ライオンズの投手の八百長をすっぱ抜いたのがきっかけだった。ちょうど高校の野球部を辞めてプロ野球の歴史に興味を持ち始めた時期の1970年、我が家は上記2紙を購読しており、そこから情報を得てスクラップもした。また、古本屋で買った「滅びゆくプロ野球」(鈴木陽一著)は、黒い霧事件以前に出版された本だが、野球賭博関係者が検挙された事件で現役プロ野球選手が捜査上に浮かんだとされる「碑文谷署事件」も知った。黒い霧事件によってプロ野球選手の追放や出場停止処分にショックを受けたが、その真相を知ろうと1970年後半に次々と出版された「ファンに詫びる」、「黒い霧は晴れたか」、「プロ野球黒書」、「プロ野球の八百長―国会は追及する」などの関連本を買って読み込んだ。

 ただ、当時の世の中の仕組み、プロ野球界、そして興行界は暴力団と少なからず関係があったのは間違いない。だからといって八百長に加担したり、暴力団へ情報を漏えい、当時話題をまいたオートレースの八百長に関与したことは許されることではない。1962年に就任した内村祐之コミッショナーがプロ野球100年の計として、当時社会問題化した契約金高騰に対して、「いきなり試合に出場させるのではなく、社会人としての正しい教養、モラルといったものを身につけさせよう」と、“未成年は(開幕から)100試合、成年は(同)50試合の出場制限”して、教育する研修制度を作った。ところが、各球団が「せっかく高い金を払って入団させたのに」との反対意見が多く、わずか2年でコミッショナーの思いは頓挫し、同コミッショナーは一期3年間で職を辞任することになった。もし、研修制度が続いていれば選手の意識が変わっていたのではないかと思っている。

 阪急が戦後すぐ陣容を強化しながら優勝できなかったのは、選手の八百長が原因だった。また、南海ホークスの鶴岡一人監督が、チーム内の八百長加担者をチェックするために一塁を守った、という話も知った。そして、昨年には偶然、調べにいった大宅壮一文庫で「私はプロ野球の八百長選手だった」という週刊誌記事も見つけた。プロ野球の歴史は、野球賭博&八百長との戦いでもあったとの思いを強くした。だが、前回の黒い霧でほとんどそんな悪の道とは縁がなくなった、と思っていた。

 球界を揺るがした事件から45年も経って、また野球賭博事件が起ころうとは。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のことわざ通り。プロ野球全体の野球賭博への危機意識の薄さから起こった出来事だろう。日米の違いはマック鈴木さんが伝えている。

https://weblog.hochi.co.jp/hiruma/2016/03/post-7681.html

 今回処分を受けた選手は、球界では一軍半と言われる投手たち。中途半端な小金を持っていることで、誘われてばれなければ大丈夫だろうとやってしまう弱さ。プロ野球選手は個人事業主といってもまだ20代半ば。NPB、選手会、そして球団などが厳しく野球賭博に関連した場合の罪の重さを教え込んでいれば、自制心が働いていたはずなのにと思わずにはいられない。野球少年の減少など、野球界の危機といわれても選手への給料はJリーグの選手とは比較しても高いのがプロ野球選手。野球賭博へのプロ野球界関係者の闇は、前回よりも深いのではなかろうか。

【注】野球賭博の演出家とされた著者が書いた「ファンに詫びる」。1971年4月に発売され話題をまいた。ただし、後に文章の中に事実をねじ曲げての記述が多いことが明らかになっている。

コメント

東京スポーツの赤坂さんが書いたように巨人の隠ぺい工作がこの事態をもたらしたのではないですか。球団に厳しいことを言えないのはわかりますが・・・。

研修制度の歴史が分かったので報告します。
昭和38年は出場制限のほか、
東京、大阪で各6日間の研修講座を開いた。
しかし、暮れの各委員会でセ・リーグは出場制限の短縮、
パ・リーグは全廃の方針を打ち出した。
39年開幕前の実行委員会で成年者に課せられた50試合
の出場制限を撤廃。未成年者は東京五輪開催という口実で
「5月31日まで」に短縮。研修講座も短くなった。
そして40年開幕前の実行委員会で出場制限撤廃と
内村コミッショナーの決定事項を見事打ち砕いてしまった。

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蛭間 豊章

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