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2016年11月 9日 (水)

野球殿堂記者投票への考察=第44回(2001年度)根本陸夫が競技者、長谷川良平が特別表彰。これは逆でしょ

1 2001年1月。個人的な事を言わせていただくと当時私は、マリナーズ入りしたイチローのシアトルでの自主トレ取材のために渡米中だった。ですから1月12日の投票結果は海の向こうで知った。競技者投票は1位の根本陸夫が245票、2位の小山正明が232票を獲得して殿堂入りを決めた。以下3位田宮謙次郎217票、4位鈴木啓示211票、5位山内一弘186票、6位福本豊179票、7位関根潤三162票、8位R・バース147票、9位上田利治131票の順だった。現役時代捕手だった根本の一軍出場はわずか186試合だったが、監督として広島東洋カープ、クラウンライター、西武のライオンズ時代、そしてダイエーホークスで指揮を執り一度も優勝に導いたことはなかったものの、ライオンズの管理部長として手腕を発揮し黄金時代の基礎を築き、ホークスでもフロントとして王貞治招聘そして常勝チームの礎を作った球界の功労者である。彼の功績の数々は9月に出版されたばかりの髙橋安幸著「プロ野球のすべてを知っていた男 根本陸夫伝」(集英社=写真)に詳しい。

 

2 小山正明は通算320勝をマークした右腕。テスト生の形で大阪タイガースに入団し、若き日は速球で1962年には5試合連続完封(期間中47イニング連続無失点)含むシーズン13度の完封勝利など27勝11敗、防御率1.66でタイガースの優勝に貢献。もう一人のエースの村山実は25勝14敗の1.20と甲乙つけがたい内容だったがMVPの記者投票では93票対72票で村山に軍配(ベストナインも89票対57票で村山。ただ沢村賞は小山が受賞)だった。落選の報に小山は「うれしいことも悲しいこともたくさんあった。世の中はそんなものだと思う。村山におめでとうと言いたい」とコメントを出している。現役引退後に報知新聞の“悪友・親友 こう言う録"で再びこのMVP投票について聞かれると「ぼくは新聞記者やアナウンサーが大嫌いで話もせん。村山は記者を家へ呼んだり、愛想よかったがな。結局あの差や。だから納得したわけ。ところが、セ・リーグがMVPと同じ大きさのトロフィーで優秀功労賞(この年が最初で最後)をくれた。毎年出てる賞ならもらうけどと、ワシはゴネた。結局受けたけれど、いつまでも拒否すると村山のMVPにケチをつけることになるからな」と述懐している。その翌年のオフ、小山は日本プロ野球最大のトレードと言われる強打者・山内一弘外野手との交換で東京オリオンズに移籍。パームボールを会得して狭い東京スタジアムを本拠にしながら1964年には自己最多の30勝をマーク。日本プロ野球で初めて両リーグで100勝を達成。1962年タイガースに次いで1970年オリオンズでも日本シリーズの大舞台に出場した。

 

 針の穴を通すというコントロールは絶品で歴代2位の通算74度の無四死球試合もマークしたが、それはメジャー関係者にも注目された。1972年3月、アリゾナキャンプで今年108年ぶりの世界一となったカブス相手に5回までノーヒットの快投を演じた。当時のカブスのレオ・ドローチャー監督が「リリーフ投手として欲しい。3イニングならメジャーでもいける」と絶賛。シーズン途中、解任された同監督はオフにアストロズ入り。オフのウインターミーティングで小山がオリオンズのトレード要員になった事を聞くと、球団フロントに調査するよう申し出た。それ以上進展しなかったが、当時のスポーツ紙は「プロ21年生の大リーガー誕生か」との大きな見出しが紙面を飾った。

 特別表彰には広島カープ一筋で197勝208敗の長谷川良平と明治大学野球部長から全日本大学野球連盟会長で1972年日米大学野球選手権創設に尽力した武田孟を選出した。合計4人の殿堂入り発表に私の思いは、

根本が特別表彰で、長谷川が競技者表彰で選ばれるべき。

だった。長谷川の防御率は2.65。14年間で通算投球回3376回1/3は、歴代13位ながら、上位12位までは全員競技者表彰で殿堂入りしている。競技者投票で最多得票は1989年の119票、翌年限りで資格を失っていた。

 6年後の1月に殿堂入りが間違いないであろう黒田博樹は20年間で日米合計3340回2/3、いかに長谷川が短期間に投げ続けたがうかがえるだろう。2年目のオフには、生まれ育った愛知県をフランチャイズとしていた名古屋ドラゴンズ(現中日)への移籍騒動が持ち上がったが、地元ファンの熱い声に翻意して残留を決めてから167センチの小柄ながら弱体カープを牽引した。ちなみに野球殿堂博物館にディスプレーされていた長谷川の座右の銘には「結果の出ぬ努力は無に等しい」。自らを奮い立たせる言葉が書かれていた。

 【注】敬称略。写真は最近出版された髙橋安幸著「根本陸夫伝」とタイガース時代の小山正明のピッチング。

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蛭間 豊章

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