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« 今回の野球殿堂発表について思う(第841回) | メイン | 野球殿堂記者投票への考察=第56回(2011年度)2年連続1票不足だった落合博満が50票増やして当選。エキスパートは最後の30勝投手の皆川睦雄と東北人2人を選出。 »

2017年1月21日 (土)

野球殿堂記者投票への考察=第55回(2010年度)落合博満が史上初、2年連続1票足らずに落選。殿堂入りは東尾修、エキスパートは遅ればせながら江藤慎一。そして都市対抗の華、古田昌幸

Higashio  2010年度の野球殿堂入りは1月14日に発表され、プレーヤー部門は東尾修が254票でただ一人入った。次点は落合博満で2年連続して1票不足。過去に1票不足で落選した例には1981年荒巻淳、1995年藤田元司があるが、もちろん2年連続は初めてだ。3位加藤英司191票、4位北別府学153票、5位津田恒美153票、6位大野豊138票、7位ブーマー111票、8位原辰德91票、9位梨田昌孝47票、10位秋山幸二42票。3年目となったエキスパート表彰では江藤慎一が37票獲得し念願の当選。1991年105票を得たのが競技者表彰最終年の得票数から19年後、彼も時間のかかった選手だ。2位皆川睦雄23票、3位星野仙一15票、4位権藤博9票、5位外木場義郎、土橋正幸各7票、7位平松政次6票、8位田淵幸一、足立光宏各3票、10位柴田勲1票だった。

 東尾は資格最終年での滑り込みだった。「こういう賞をいただき、非常にうれしく思っています。殿堂入りを意識したのは昨年。今年はひそかに期待してました」と本音を言った。黒い霧で西鉄ライオンズが打撃を受けた時に抜擢され「チャンスというか・・・。辞められた方には申し訳ないけど、これが大きかった」プロ2年目から先発にリリーフにフル回転、故障もあった1979年を除き18年間で17度規定投球回入り。300イニング投げたのが3度もあるなど通算4000イニング超えは歴代8位。球威不足を絶妙なボールの出し入れでカバー。内角をきびしくつくための165与死球は“勲章"でもある。1974年までは通算58勝84敗の借金26。ここから、以降14年間で193勝163敗で通算で4の貯金で現役生活を終えた。ここまで殿堂入りが遅れたのは1987年オフにマージャン賭博で半年間の出場亭処分となったためのようだ。

Eto 2008年の第1回エキスパートから名前の入っていた江藤は、13→23→37と順調に票を伸ばしてきた。1965、66年に2年連続首位打者となって、読売ジャイアンツ、王貞治の三冠王を連続阻止。1971年にはロッテオリオンズで初の両リーグ首位打者(内川がその後達成)が知られる。外国人選手に異常な闘志を燃やしていたのも特徴。1962年デトロイト・タイガース来日の際に2本塁打含む8打数4安打、1966年ロサンゼルス・ドジャース戦も6試合で20打数9安打(1本塁打)、1968年セントルイス・カージナルス戦が12打数4安打(1本塁打)と日米野球では毎回活躍を見せていたのが印象的だ。2008年に亡くなっていたため、表彰式は弟の省三(当時慶大監督)が出席。「兄もあきらめていたと思う。2月の三回忌で、祝杯をあげます」と話した。1973年4月18日、大洋子エールズの兄・慎一が6回に左翼席にたたき込むと、中日ドラゴンズの弟・省三が9回に同点アーチしたことがある。この試合以外、日本プロ野球で兄弟が本塁打を打ち合った事はなかったのである。

 落合の2年連続1票不足は「落合監督は日本式殿堂投票の被害者PART2」で下記のブログで書いておりますので、それをお読みください。

 https://weblog.hochi.co.jp/hiruma/2010/01/post-5db1.html

5880ba21tg3 古田昌幸は九州学院高から立大に進学し長嶋茂雄の2年先輩。卒業後はノンプロ熊谷組に進み、都市対抗野球に16回出場し3回の優勝を飾った名二塁手兼監督。“ミスター都市対抗"と言われた人物。1957年、デトロイトのブリッグス・スタジアム(後のタイガー・スタジアム)での第3回世界野球大会に出場。3勝1敗と勝ち進み、カナダとの決勝戦、延長11回に決勝タイムリーを放ったのが「1番・二塁」の古田。日本社会人野球協会会報に掲載されたAP通信記者の印象記によれば「古田の守備範囲の広さは大リーグ級」と絶讃されている。巨人を9連覇に導いた川上哲治監督も後に「プロでも名二塁手になれる」と太鼓判を押したという。もし、プロ入りしていれば中日で一世を風靡した高木守道のような二塁手になっていたのではないだろうか。1996年の第1回、世界アマチュア野球選手権の代表監督も務めるなど社会人野球への功績も大きかった。

 【注】敬称略。写真は1975年太平洋クラブライオンズ時代の東尾修、1962年ドラゴンズ時代の江藤慎一。そして、1966年都志対抗野球で優勝した熊谷組で、橋戸賞に輝いた古田昌幸。

コメント

落合氏に限った話でないですが、数表差で浪人する程度なら'''まだ良いほう'''と言い切って、制度や投票者の姿勢などの親和性に欠陥があることに触れた記事を見た事がありません。古今東西このブログくらいじゃないでしょうか。
まあ、こういうブログじゃなくて新聞に掲載される記事になると、「誰々は何々なので嫌われた!」などといったスキャンダラスな話に繋げてyahooでアクセス稼いだほうが金が稼げる世の中なので仕方ないのですが。ただ、「マスコミvs落合氏ネタ」にしても当時本当にマスコミの扱い悪いのは原さんのほうで、中日のほうが年俸総額多かった時期も半々くらいなのに100分の1の戦力で毎年優勝してるかのように誇張された記事ばかり毎日読みましたよね(苦笑)。

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