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« 野球殿堂記者投票への考察=第55回(2010年度)落合博満が史上初、2年連続1票足らずに落選。殿堂入りは東尾修、エキスパートは遅ればせながら江藤慎一。そして都市対抗の華、古田昌幸 | メイン | エンカーナシオンはレジー・ジャクソンになれるか »

2017年1月28日 (土)

野球殿堂記者投票への考察=第56回(2011年度)2年連続1票不足だった落合博満が50票増やして当選。エキスパートは最後の30勝投手の皆川睦雄と東北人2人を選出。

Ochiai 史上初めて2年続けて1票不足で殿堂入りを逃していた落合博満が過去2年間の227票から277票と50票も増やして当選した。1月14日開票された野球殿堂。プレーヤー部門の2位以下は、2位北別府学226票、3位津田恒美212票、4位ブーマー184票、5位大野豊177票、6位原辰德109票、7位佐々木主浩103票、8位秋山幸二89票、9位斎藤雅樹57票、10位大島康徳50票だった。

 落合は1953年生まれで、私と同学年ということで思い入れはひとかどではない。当選した当時のブログに手を入れて書く。落合が秋田工3年の1971年、ドラフト会議で1位指名された同級生は、ともに甲子園に出場した深谷商・竹内広明投手が大洋ホエールズに、鶴崎工・藤沢哲也投手が中日ドラゴンズと2人しかいなかった。同年の甲子園大会はセンバツが日大三高、夏は桐蔭学園高が優勝しており、両校の優勝投手、日大三高・渡部良克、桐蔭の大塚喜代美でともにアマチュア野球で現役生活を終えている。夏の甲子園大会で活躍し、プロ野球界で生き残っているのは近鉄に2位指名された浜田高の梨田昌崇(現昌孝)くらい。しかし、落合同様に社会人経由でプロ入りした真弓明信、同志社大に進学して4年後に中日に1位指名された田尾安志も楽天監督を経験している。スカウトから見れば不作の年代と言われながら50年近く経った今、4人がプロ野球で活躍し、監督まで務めるようになったのだから同級生として胸を張れる。

 落合の東芝府中時代のプレーはほとんど記憶にないが、社会人代表で世界選手権などに出場していることは知っていた。そんな私に強烈な印象を残したのがプロ入り1年目の1979年4月17日、後楽園球場のイースタン・リーグ・トーナメントの巨人戦だった。その年だけスピードガン担当だった私はその試合に助っ人で、取材陣の一人だった。空白の一日で世間を騒がせた巨人・江川卓投手の公式戦デビュー試合。まだ寒さの残るウイークデーのナイトゲーム。大人500円で全席自由席だったため、開門するとあっという間に1階席が埋まり2階席も解放。その日のプロ野球一軍6試合のどこよりも多い3万2000人の観衆で埋まった。

 4番に入った落合は、豪腕・江川から1回に中超えの先制二塁打。3回にもタイムリーを左前に運んだ柔らかいバッティングが目に焼き付いた。その後は、日々の成績を気にする選手の一人となり、担当だった“記録室"で何度も取り上げる選手に成長。通算510本の本塁打を公式戦でたたき込んだが、私が最も鮮明に覚えているのが1988年6月17日、ナゴヤ球場で、中日移籍後苦手にしていた槙原寛己投手から30打席目で初めて打った一発。普段は滅多に喜びを見せずに淡々としてダイヤモンドを一周する男が珍しく、握り拳を地面に向けてたたきつけるような逆ガッツポーズも印象的だった。

 1992年日米野球の連載記事では、素手で打席立っていたカブスの主砲マーク・グレースが感心していると伝え、手袋をせずにバットを握り続ける意味を取材すると「オレの場合は(手に)豆も出来にくいし、バットを握ったときの感触を大事にするからね。バットは手の延長のようなものだから素手でなくてはいけないんだ」と、シーズン中には現場に出ない記者に丁寧に答えてくれたのもいい思い出だ。

 当時、中日の監督を務めており、現役監督の殿堂入りは1965年度の南海ホークス・鶴岡一人、読売ジャイアンツの川上哲治に次いで3人目となった。会見では「これからも(野球界のために)もう一肌、ふた肌脱げるのであれば脱ぎたい」と話した落合。ユニホームを脱いでから言動ぶりは首をかしげる。まだ63歳。殿堂入りの会見のコメントをもう一度かみしめて欲しいものである。

Minagawa エキスパート表彰では皆川睦雄が当選。エキスパート初年度の2008年から11→23→23。この年に一気に35票まで伸ばした。2位以下は2位権藤博18票、3位外木場義郎12票、4位平松政次10票、5位土橋正幸8票、6位加藤英司5票、7位足立光宏4票、8位柴田勲2票、9位高田繁1票だった。

 山形・米沢西高(現在の米沢興譲館高)出身の皆川は同期の野村克也がハワイキャンプでレギュラーをつかんだプロ入り3年目の1956年、ハワイ組投手陣がそろって不振だった際に昇格して結果を残した。その後、ローテーションに組み込まれ、1968年に最後の30勝投手として知られる横手投げ右腕。南海ホークスの日本一は1959年公式戦38勝、日本シリーズ4戦4勝の同学年・杉浦忠、1964年日本シリーズで2試合連続完封含み3勝したスタンカ。この2人が大ヒーローだったが、皆川はその2シーズンともに10勝、7勝だった。日本シリーズ通算成績は9試合で0勝4敗、オールスター戦も7試合で0勝1敗と日の当たる投手ではなかった。しかし、1968年はパ・リーグ記録の26先発勝利含め31勝。防御率も1・61で初のベストナインに選出。翌年も期待されたがオープン戦で送りバントをしようとした際に投球が右手人さし指に当たり骨折。この後遺症もあって2度と2ケタ勝利出来ずに3年後、ユニホームを脱いだ。野村克也があれなカットボールだったという変化球を会得して30勝につなげたと知られる。また、打撃も悪くなく通算12本塁打を放っている。全盛期だった1968年、チームが最終戦で優勝を逃した。もし、勝ち上がっていたらエースとして日本シリーズで、どんなピッチングをしていただろうか、残念だ。

 特別表彰は18年ぶりに選出されなかった。

 【注】敬称略。写真は2年連続三冠王となった1986年、ロッテオリオンズ時代の落合博満と、飄々としたピッチングが印象だった皆川睦雄(1970年オープン戦から)。

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蛭間 豊章

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