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2019年3月 1日 (金)

祝「週刊プロレス」2000号とターザン山本“活字プロレス”の終焉…金曜8時のプロレスコラム

 「週刊プロレス」(ベースボール・マガジン社、以下BBM社)が今週号で2000号を迎えた。記念号の表紙は、「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」(2月19日、東京・両国国技館)で、三冠ヘビー級王者・宮原健斗(29)=全日本プロレス=と前IWGPヘビー級王者の棚橋弘至(42)=新日本プロレス=が肩を組んでマイクアピールしているシーン。「みんなのプロレス ありがとう 2000号」と書かれている。

 日本で唯一となったプロレス週刊誌を伝承している湯沢直哉編集長(48)には頭が下がる思いだ。何よりの英断は、この記念号に、あのターザンン山本元編集長(72)を登場させ、新旧編集長対談と名物コラム「ザッツ・レスラー」を復刻させていることだろう。

 「週プロ」はターザンン山本を抜きにしては語れない。とは言うものの、新日本などの団体から取材拒否を食らうほどの過激で危険な人物で、さらに現在はプロレスラー「ターザン山本!」として“邪道”大仁田厚(61)と抗争しており、今のプロレスファンには決して受け入れられない存在になっている。

 自らも「活字プロレスが必要のない時代」と語っているターザンだが、1号限りの「週プロ」復活は、読者時代から信奉していた湯沢編集長の恩返しに他ならない。寡黙な編集長だからこそ、その熱い思いが2000号の誌面から伝わってきた。

 昭和のプロレスファンにとって、「週プロ」の2000号到達で思い出すのは、週刊の先駆者で活字プロレスの元祖だった1967年3月創刊の「週刊ファイト」(新大阪新聞発行のタブロイド紙)が1990号(2006年10月4日号)で力尽きたことだ。記念号まであと10号だった。「ファイト」の名物編集長だった故・井上義啓さん(I編集長)の弟子だったターザンの、その後継者が記録を達成した輪廻転生を感慨深く思う。

 2007年3月に「週刊ゴング」(日本スポーツ出版社)が休刊し、一時は5誌も発行されていたプロレス週刊誌が、「週プロ」1誌のみになり、ターザンが「『週刊ゴング、ファイト』を殺したのは誰だ!」(東邦出版)を出版した時にインタビューした。

 当時の記事を振り返ってみると…。

 ターザン山本!。記者なのに、リングに上がりレスラーを挑発したり、猪木からビンタを食らうなど、レスラー顔負けのパフォーマンスを披露。95年4月には東京ドームでBBM社主催のオールスター戦を開催し、プロモーターにまで上り詰めた。批判、スクープ何でもありの報道姿勢に業界を代表して異を唱えた長州力と衝突。新日本プロレスから取材拒否を食らい、責任を取り96年に退職した。

 「編集長時代は『週プロ』を公称40万部売ったんですよ。BBM社の看板雑誌『週刊ベースボール』の部数を超えるという“腸ねん転”の現象を起こし、会社の中では何をやっても許される別格の存在だったんです」と鼻息荒く栄光の過去を自画自賛するターザン。だが退職後に待っていたのは地獄だった。妻と娘が家出し、あげくその妻は当時の部下と再婚。稼いだ1億円は競馬で消え借金生活、おまけに糖尿病で入院…と絵に描いたような不幸が襲った。

 それでも、あの北野武氏に弟子入りし「ビートたかし」の芸名をもらったり、井筒監督と映画本を出版。しぶとくマルチに糊口(ここう)をしのいできた。

 ターザンは「―殺したのは誰だ!」という物騒なタイトルをつけながらも「我々は全員プロレスバカだった。世の中に対して怠け者だったということ」「誰の責任でもないよ」と犯人捜しを避けている。

 「週刊ファイト」で記者デビューしたターザンは、80年に「月刊プロレス」に移籍。83年7月に週刊化を成功させ「週刊ファイト」の部数を食うと、月刊向きだった「ゴング」を挑発して、84年5月に週刊化に追い込んだ。その後「週刊ビッグレスラー」(立風書房)、「週刊ザ・プロレス」(東京スポーツ新聞社)も誕生。週刊誌戦争に火をつけ、ターザンはその先頭に立ってひっかきまわし続けた揚げ句、突出しすぎて追放され、競争社会に自ら幕を引いた。

 「殺した犯人はオレじゃないか? あのまま編集長を続けていれば、(激務で)オレが死んでいたよ。個人で業界そのものと戦ってたんだぜ。めちゃくちゃだよ。ハレンチすぎるねえ」

 12年前に「ハレンチ」と自認していたターザンは、大仁田とのリングでの抗争で、究極のハレンチ道を暴走している。「週プロ」2000号に掲載された「週プロ事件史」では、96年1月にTBS系「ウンナンの桜吹雪は知っている」という番組で、ターザンと大仁田が“裁判”したことが紹介されている。

 95年5月5日に川崎球場で引退試合(2回目)を行った大仁田について、ターザンが「週プロ」で「復帰疑惑」と書いたことで、大仁田が訴えたのだ。そこでターザンは“敗訴”しているが、大仁田は7度の引退と7度の復帰を繰り返し、ターザンとリングで戦っているというのが2019年の真実。ハレンチにもほどがある。

 そしてターザンは、「活字プロレスは今や完全な死語」と言い切った。2000号では、棚橋と宮原のプロレスを湯沢編集長が愛をもって伝えている。そう、この「金曜8時のプロレスコラム」で懐かしむレジェンドたちの昭和プロレスのように、「活字プロレス」も、思い出とともにひもとく古典と位置付けよう。(酒井 隆之)

 

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