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2019年4月

2019年4月19日 (金)

前田日明を「この野郎!」とにらみ返した名物記者…金曜8時のプロレスコラム

 今年50周年を迎えたテレビ朝日系「ワールドプロレスリング」(毎週土曜深夜2時)で新日本プロレスの米MSG(マジソン・スクエア・ガーデン)初進出興行「G1スーパーカード」(日本時間7日)が13日に放送されたが、解説を務めたのがプロレスTODAY編集長の柴田惣一さん(60)だった。元東京スポーツ運動部長と言った方がわかりやすいか。

 メインイベントのIWGPヘビー級選手権、ジェイ・ホワイトVSオカダ・カズチカのゴングが鳴ってすぐ、実況のテレビ朝日・野上慎平アナウンサー(35)が「柴田さん」と問いかける。かつて古舘伊知郎アナウンサーが当時の東京スポーツ運動部長・桜井康雄さんに「桜井さん」と言って取材の引き出しを開けていく、安定した掛け合いが懐かしい。これが新日本プロレスを「ワールドプロレスリング」というワンダーランドに仕立てて、視聴者を興奮させてきた。

 この昭和からの伝統が令和の時代へ続くことをMSG中継で感じられ、うれしくなった。柴田さんは、「解説は以前は毎週のようにありましたが、今は月1回程度です。あくまでもテレビ朝日さんからの仕事で新日本プロレスさんから出演料をもらっているわけではありません」と記者として団体と一線を引いていることを強調する。東スポを辞めてからは「ヅラではありません。引っ張ってみてください」と盛ったような自身の頭髪をネタにしたり、「1000のネクタイを持つ男」と自称して、ミッキーマウスなど派手なネクタイを自慢するキャラクターになっているが、決してレスラーに媚(こ)びない記者魂の持ち主だ。

 私が柴田記者を初めて見たのは、1990年10月25日の大阪城ホールの控え室だった。前田日明氏(60)の新生UWFでの最後の試合となった船木誠勝(50)戦の直後だった。大学時代に今はなき「週刊ファイト」(新大阪新聞社)のアルバイトとしてコメント取りの手伝いをしていたのだが、UWFの解散前夜で現場はピリピリしていた。

 記者に囲まれて質問を受けていた前田(現役時代の回想のため以下敬称略)は、柴田記者を見つけるなり「おい、ウソばっかり書きやがって。東スポはウソばっかり書くからな」とかみついた。柴田記者はひるむことなく、「それは私個人に対してですか、会社に対する抗議ですか」とにらみ返し、会社批判なら聞き捨てならない、という毅然たる態度を取った。

 前田は「終わりだ」と言って囲み取材を打ち切って、報道陣を追い払った。レスラーとプロレス記者はある種のなれ合いのような関係だろう、と高をくくっていた学生記者にとっては、衝撃的な場面だった。スポーツ報知の記者になってからも、たまにしか来ない他社の記者である私に、柴田さんはいろんなことを教えてくれた。

 前田との関係が濃密だったからこそ、平気でぶつかり合えることを知った。前田と柴田記者は1958年度生まれの同学年。学習院大卒の柴田記者の記者1年目の1982年には前田は英国武者修行中で、翌83年にIWGPヨーロッパ代表として凱旋帰国してから密着取材。「越中詩郎もそうですが、同学年ですから特に思い入れのある選手ですよ」という。

 「蹴られて前歯が飛びましたし、バックドロップで死にかけたこともあります」私が目撃したあの丁々発止の前に、もっと衝撃的な体験をしていたのだ。旧UWF時代の1984年に横須賀市総合体育館で前田の襲撃を受けたという。記事を見てカチンときて突っかかってきた前田に、柴田記者も「何だ、この野郎!」と食ってかかった。その瞬間、ハイキックを浴びてダウン。「前歯が2本飛んでいくのがフラッシュバックのように見えました」と今だから笑える話だ。

 さらにその和解のために、同行したグアム合宿でもぶつかる。プールサイドで遊んでいた時に、前田が柴田記者を抱えてプールにバックドロップで投げ込もうとした。その時、前田の足が滑ってしまい、プールサイドのコンクリートの上に落下。「生まれてからの思い出が走馬灯のように見えました。本当に見えるんですね」と述懐する。前田は「俺がとっさに、腕で頭をガードしたから助かったんだよ」と自慢げに笑っていたという。

 「武道経験どころかスポーツ経験もありません」という小太りの柴田記者。当時が老けていたのか、30年前と変わっていないような気がする。頭髪は増えているようにも思える。今でも番長キャラを隠せないダンディーな前田日明氏と、腕力ではかなわいないが絶対に引き下がらず番長から一目置かれる秀才キャラの柴田記者。還暦になっても、この関係は変わらない。一流レスラーと番記者という名コンビも、プロレス文化を醸成してきた大切な要素だと思う。(酒井 隆之)

2019年4月12日 (金)

昭和の呪縛を解き、平成の夢をかなえたIWGPインMSG…金曜8時のプロレスコラム

 ◆新日本プロレス 米国マジソン・スクエア・ガーデン大会(6日、米マジソン・スクエア・ガーデン、観衆=1万6534人超満員札止め)

 新日本プロレスが、今月6日(日本時間7日)、世界で最も有名な格闘技の殿堂MSG(マジソン・スクエア・ガーデン)で米国の団体ROHとともに行った合同興行「G1スーパーカード」を開催し、超満員札止め1万6534人の大観衆を集めた。

 メインイベントのIWGPヘビー級選手権では、挑戦者のオカダ・カズチカ(31)が王者・ジェイ・ホワイト(26)を必殺のレインメーカーで撃破し、昨年6月以来、約10か月ぶりに王座奪回に成功した。

 これはIWGPが始まった1983年当時の新日本プロレス専務取締役営業本部長で“過激な仕掛け人”と呼ばれた新間寿氏(84)の考え方によれば、まさに理想のMSGでのIWGP“優勝決定戦”(タイトルマッチ)だった。当時の構想では、世界中で予選リーグを行い、それに勝ち上がってきた各国代表によって決勝リーグを戦い、その最終決着戦である優勝決定戦を、米ニューヨークの最高峰MSGで行うというのが、本来の青写真だった。

 結局は第1回優勝決定戦は1983年6月2日、東京・蔵前国技館で開催された。ご存じの通り、ハルク・ホーガンがアントニオ猪木を“舌出しKO”して、一般紙の社会ネタにもなったあの事件だ。なぜ、MSGではなく、蔵前になったかというと、全国の新日本プロレスのプロモーターが、総意として全日程を日本で開催してほしいという要望があったからだ。そのリクエスト通り、全国を巡業した全日程が満員になるというブームの絶頂だった。

 あれから36年、「G1スーパーカード」(メインイベント:IWGPヘビー級選手権)は、MSGで開催され、日本ではBSテレ朝チャンネルで生放送された。日本で特番を作ったわけではなく、米国で中継されたままの映像が字幕なし、同時通訳なしで日本に紹介された。そこで流れたCMとして、今年の「G1クライマックス」が、7月6日に米国アメリカン・エアラインズ・センターで開幕するというのがあった。「史上最もグレートなプロレストーナメント」としてのあおりVTRで、過去の新日本プロレスの名勝負が流された。

 1978年の第1回MSGシリーズ開幕戦(4月21日・蔵前国技館)でのアントニオ猪木VS坂口征二、1983年の第1回IWGP優勝戦(6月2日・蔵前国技館)でのハルク・ホーガンVSアントニオ猪木、そして1991年の第1回G1クライマックス優勝決定戦(8月11日・両国国技館)での蝶野正洋VS武藤敬司という象徴的な名勝負だった。

 G1クライマックスの名場面として、第1回G1優勝決定戦での“両国座布団乱舞”は予想できたが、これと同時に新間氏がプロデュースした蔵前での2試合が流れた時は、昭和のプロレスファンとして、感慨深いものがあった。あのIWGP構想がようやく、MSGで認められたような気がした。これまで新間氏は「IWGPはインターナショナル・レスリング・グランプリなんです。だから全世界から集まった強豪によるリアル・ワールド王者決定戦なんですよ。単なるタイトルマッチではありません」と当初の理念とは違っていることを強調していた。

 だが、今回は史上最多32人が参加した「ニュージャパンカップ2019」を日本で制したオカダがMSGでの”決勝”(タイトルマッチ)に進出したという図式だ。

 そんなことを考えていると、同日に米国最大のプロレス団体、WWEの最高峰となる祭典「レッスルマニア」前夜祭(米国時間6日、日本時間7日)の情報が入ってきた。ニューヨーク市ブルックリンのバークレイズ・センターでWWEの名誉殿堂「ホール・オブ・フェーム」の記念セレモニーが開催されたのだ。今年新たに殿堂入りしたD-ジェネレーションX、ホンキー・トンク・マン、トリー・ウィルソン、ハーレム・ヒート、ハート・ファウンデーションのブレット・ハート、ブルータス・ビーフケーキ、スー・エイチスン(ウォリアー賞)がこの記念セレモニーに登壇し、功績をたたえられた。

 レガシー部門ではブルーザー・ブロディ、ジム・バーネット、ルナ・バション、”プレイボーイ”バディ・ローズ、プリモ・カルネラ、プロフェッサー・トール・タナカ、スペシャル・デリバリー・ジョーンズ、ワフー・マクダニエル、ジョー・コーエンに加え、新間寿氏(84)が殿堂入りした。新間氏はWWEがWWFと呼ばれていた1980年代にWWF会長を務め、当時の王者、ハルク・ホーガンの日米での活躍に貢献した。

 日本人としては、2010年のアントニオ猪木、15年の藤波辰爾、17年の力道山、18年のヒロ・マツダに続いて5人目の殿堂入りとなったのだ。平成が終わろうとするまさにその渦中に、昭和に果たせなかったIWGPのMSG開催が実現し、その功績がWWEでたたえられたのだ。昭和から続く、あらゆる恩讐、因縁を一掃したIWGPインMSGだった。(酒井 隆之)

2019年4月 5日 (金)

「YES!」高須院長に学ぶ“炎上上等”のプロレス力…金曜8時のプロレスコラム

 東京・靖国神社相撲場で3月31日に開催されたプロレスリングZERO1による靖国神社創立150周年記念奉納プロレス「大和神州・力まつり」で、スポンサーになった高須クリニックの高須克弥院長(74)がリングインして、大声援を浴びた。

 今年で16回目となる春恒例の靖国プロレスには、レジェンドの藤波辰爾(65)が初出場し、ZERO1代表の大谷晋二郎(46)と師弟タッグを結成するなど、超満員1128人を楽しませたが、高須院長の登場も記念すべき場面だった。

 ZERO1のGMを務めるお笑いタレントの三又又三(51)が、セミファイナル前にリングに上がり、「盛り上がってますかー? みなさん、おかげさまで去年よりも今回、お客さんが入ってます。私が一番、テンションが上がっておりますが、みなさんは我々ゼロワンにとっての強力なサポーターです。その中で、今回のこの靖国からまた一人、強力なサポーターが来場してるんで、リングに上げてもよろしいですか? それではこの方の入場です。高須クリニック院長!」とコール。

 おなじみのCMソングが流れると、会場は「高須!」コールに包まれる中、すり鉢状になっている相撲場の花道を高須院長は手を振りながら下りていき、リングイン。場内では「YES!」「YES!」とWWE王者のダニエル・ブライアンへのコールのように盛り上がる連中もいて、高須院長は大喜び。

 マイクをつかんで「うれしいです」とリングに立っている自分に興奮した。三又GMは「高須先生が強力サポーターになった経緯をご説明させてください。今回、毎年、靖国のこの奉納プロレスの会議で、誰か来て欲しい、ふさわしい人がいないかという時に、僕が高須院長いいんじゃないかと、高須院長に直々に手紙を書いて送ったんです。これ本当なんです。そしたらまさか、本当に来ちゃいました」

 「これ、僕が言うのも何ですけど、三又又三から直接、手紙が来たら怖いですよー。金貸せとかそんなんじゃねーかと。そんな中、高須先生、本当にありがとうございます」

 高須院長は「頼まれたら絶対にNOとは言えません」「YES!」と言ってさらに盛り上げた。三又は「やはり高須クリニックといえば美容整形じゃないですか、例えばですけど、若干の割り引きって効くんですか? 僕は男として一皮も二皮もむけたいんです」と美容整形をお願いすると、高須院長は「特別、たくさんむきます。思いっきりむきます」と下ネタ気味に大爆笑を誘った。

 三又は「このあと出てくるTARUという悪いやつがいるんですが」と説明すると、高須院長はTARUが襲撃予告していることについて「TARUさん、僕にかみついてくれて、うれしかったです」とプロレスに巻き込まれることを大歓迎。TARUに襲撃された経験のある三又は「僕、10針縫ってるんですよ」と警告すると「きれいに縫えます。ただでやりますから」と三又が再度、襲撃されることを期待した。

 最後は三又の音頭で「イエス! 高須クリニック!」と会場全体で大合唱。観衆の食いつきに調子に乗った三又は、「これがやりたかったんです。もう1回やろう」と悪ノリ。高須院長は「ちょっとくどいよ」と遠慮したが、2回目もさらに盛り上がったコールになった。

 控え室に戻ってからも、「リングで言った通り、本当に僕の手紙で来てくれたんです」と記者に経緯を再度説明し、興奮が冷めない三又。こちらとしては、たびたび高須院長の公式ツイッターでのつぶやきを、エンタメのネットニュースに取り上げているだけに、「いつも勝手にネタにさせてもらってます」と院長にあいさつすると、「ありがたいことです。どんどん、好きに引用してください」と上機嫌だった。

 院長は「炎上上等」(扶桑社)というタイトルの著書もあるように、歯に衣着せぬツイートでいろんな芸能人をいじっている。からんできたお笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」の村本大輔(38)に対しても、あえてツイッター論争につきあい、ネット住民を楽しませてきた。

 村本が、高須院長の長男・力弥氏のイラスト(西原理恵子画)を自身のアイコンに無断使用したことで「家族に対する侮辱と嘲笑は許さない。二度とやったら即座に全力で叩き潰す」と高須院長が幕を引いたが、このいつ爆発するかわからない、リアルな緊張感は、最近のプロレスでは、少なくなった。

 三又GMの飛び込み営業で、ZERO1のリングの幕に「高須クリニック」の広告が入るなど、スポンサーとして、お金を引っ張ってくることには成功した。靖国神社奉納という大義があったからこそ、院長が乗っかっただけなのかもしれない。これを一過性のものにするのはもったいない。大衆を引きつける高須院長の“炎上上等”精神をリングに反映させることこそ、三又GMの役割のような気がする。(酒井 隆之)

 ◆高須 克弥(たかす・かつや)1945年1月22日、愛知・一色町(現西尾市)生まれ。74歳。69年、昭和大医学部を卒業、医師免許取得。73年、同大学医学部整形外科大学院を修了、医学博士号取得。76年、名古屋市に高須クリニック開設(現在は東京・赤坂など5か所)。98年から数度にわたり、最先端の美容整形技術を自身の体に施術して「若返り」を実証している。2010年、紺綬褒章、日本赤十字金色有功章を受章。

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