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2019年3月23日 (土)

東京ドーム開幕祭が開幕

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  いよいよプロ野球シーズンが開幕です。23日は東京ドームで巨人・ロッテのオープン戦が行われましたが、東京ドームシティGIANTS開幕祭が開幕しました。

 原監督のグータッチ像が4年ぶりに復活。今季の巨人のスローガン「和と動」(原監督・筆)がゲート前のスクリーンに映し出されると、ドームシティが厳粛な雰囲気に包まれました。

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2019年3月22日 (金)

引退から1か月、飯塚高史が鬼になる直前に遭遇した時の話…金曜8時のプロレスコラム

 “クレイジー坊主”こと新日本プロレスのヒール、飯塚高史(52)が引退して1か月がたった。2月21日に東京・後楽園ホールで行われた「NEW JAPAN ROAD 飯塚高史引退記念試合」で、札止め1726人の観衆を前に無言でリングを去ってから何の音沙汰もない。

 スキンヘッドに長いひげ、181センチ、107キロのたたき上げの肉体。最後の6人タッグマッチでは、鈴木みのる、タイチと組んで、矢野通、天山広吉、オカダ・カズチカ組と対戦。天山から「飯塚! 目を覚ませ」と呼びかけられたが、かみついてヒール全開。最後は天山のムーンサルトプレスに散った(22分14秒、体固め)。

 天山と握手したものの、結局、またかみついて凶器の「アイアンフィンガー・フロム・ヘル」で地獄突き。タイチが「飯塚、本当に引退するのかよ。最後くらい自分の声でちゃんと答えろよ。コノヤロー」とマイクを促されたが応じず、応援に駆けつけたアイドルグループ「ももいろクローバーZ」をも無視して退場した。鈴木みのるが、無理やりテンカウントゴングを鳴らして終わらせた。

 試合後の囲みもなく、新日本プロレスでの一夜明け会見も開かれず。その後、入ってきた唯一の情報は、23日にCSテレ朝チャンネルの「ワールドプロレスリング 大特集」で「“怨念坊主”飯塚高史 大特集!」が放送されるということ。

 午後2時から3時間にわたって飯塚の過去の映像が流される。もちろん本人が振り返ったりはしない。番宣資料によると「1985年5月に新日本プロレスに入門。1986年11月にプロレスデビューをはたす。旧ソ連(現ロシア)へのサンボ留学など、長らく本隊の正統派選手として活躍していたが、2008年3月に天山広吉との友情タッグを裏切って、G.B.Hに加入。以降はルックスや試合も凶悪スタイルに変貌し、アイアンフィンガー・フロム・ヘルで幾多の戦士を窮地に陥れた。そんな新日本マットを代表する狂気あふれるヒールレスラーとして活躍した飯塚高史選手の引退を記念して過去の名試合を大特集!!」という紹介だ。

 予定されている対戦カードは、1989年に長州力からパートナーに抜擢されスーパー・ストロング・マシン、ジョージ高野組からIWGPタッグ王座を奪取した出世試合から、前述の引退試合まで11試合。2000年に佐々木健介に挑んだIWGPヘビー級選手権や、天山とのシングルマッチもある。

 引退から第2の人生が発表されていない謎の空白の時間だからこそ、アーカイブを神秘的に楽しめることだろう。ついでに、この空白の期間だからこそ、書いておきたいことがある。

 あれは2年前の両国国技館でのことだった。デスク勤務のため、取材を担当記者に委ねて興行の途中で中座。バックステージのトイレに立ち寄った。この日は使用されていない大広間前で、選手控え室からも遠いトイレだったが、入った時に上半身裸の男が手を洗っていた。「お疲れ様です」と言いながら足を小便器の方に進めてから、出番前の飯塚であることに気付いた。

 決して花道を使用せず、観客席の後方からサプライズで暴れながら入場する飯塚は、控え室(支度部屋)や花道とは反対の見えない所でスタンバイしておく必要があったのだ。こちらもイレギュラーな行動をしたから、普段なら入れるはずのない、出番前の控え室に侵入してしまった。「やばい」と思いながら用を足して、出て行くとき、鏡越しに目が合い、会釈に応じてくれた。

 “鬼”になる前でよかった。「ドレッシングルームは、レスラーが人間から鬼に変わる場所」と言ったのは作家の村松友視氏だったか。そして、試合後に人間にまた戻る場所でもあるのが控え室。鬼のままフェードアウトした飯塚は、“人生の支度部屋”で長風呂に入っているのだろうか。また、鬼になって出てきてほしいと思ってみたりもする。(酒井 隆之)

 ◆飯塚 高史(いいづか たかし) 1966年8月2日、北海道室蘭市生まれ。52歳。本名(旧リングネーム)は飯塚孝之。1985年5月、新日本プロレス入門。86年11月2日、野上彰(現・AKIRA)戦でデビュー。89年、馳浩とグルジアでサンボ修行し、異種格闘技戦に挑んだ。08年、天山広吉との「友情タッグ」を結成。同年4月に真壁刀義、矢野通組のIWGPタッグ王座に挑戦も試合中に天山を裏切り、ヒールに転向。以降は頭をスキンヘッドにし「クレイジー坊主」として無言を貫き、入場時には観客席を破壊する狂乱ぶりを披露。テレビ朝日の野上慎平アナウンサーを試合のたびに襲撃することでも話題を呼んだ。

 ◆CSテレ朝チャンネル「ワールドプロレスリング “怨念坊主”飯塚高史 大特集!」(3月23日午後2時~)放送予定カード

 ・マシン、高野vs長州、飯塚(1989年7月13日)

 ・飯塚、野上vs齋藤、青柳(1994年1月4日)

 ・橋本、平田vs山崎、飯塚(1996年6月12日)

 ・佐々木vs飯塚(2000年7月20日)

 ・真壁、矢野vs天山、飯塚(2008年4月27日)

 ・天山vs飯塚(2008年10月13日)

 ・天山vs飯塚(2011年1月4日)

 ・天山、小島vs矢野、飯塚(2012年5月3日)

 ・天山、小島、永田、桜庭vs矢野、飯塚、裕二郎、YOSHI(2014年3月6日)

 ・矢野、飯塚vs鈴木、ベンジャミン(2014年5月25日)

 ・引退試合 オカダ、天山、矢野vs飯塚、鈴木、タイチ(2019年2月21日)

2019年3月15日 (金)

あの時、デストロイヤーさんに4の字固めをかけてもらっていれば…金曜8時のプロレスコラム

 プロレスオールスター戦として話題になった「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」「アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念~さらば呪術師~」(2月19日、東京・両国国技館)が10日にCS放送 日テレジータス(日テレG+)で放送された。三冠ヘビー級王者・宮原健斗(29)=全日本プロレス=と前IWGPヘビー級王者の棚橋弘至(42)=新日本プロレス=がタッグ対決したメインイベントまでの9試合と馬場さん&ブッチャーのセレモニーが放送されたが、大会当日から放送日までに想定外のことが起きた。

 「白覆面の魔王」として馬場さん、ブッチャーと因縁が深かったザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)に米ニューヨーク州北部バファロー郊外の自宅で老衰のため88歳で亡くなったのだ。1963年に初来日し、得意技の「足4の字固め」で力道山との死闘を始め、豊登、馬場、アントニオ猪木、ジャンボ鶴田、ブッチャー、ミル・マスカラスらとともに昭和のプロレス史を彩った。

 ザ・デストロイヤーさんは、馬場&ブッチャー興行に招待されていたが、体調を理由に欠席し、メッセージが紹介された。会場では、懐かしい映像とともに聞き入ったが、これが日本のファンに向けた、最後の言葉になってしまった。

 聞き流してしまった言葉を、放送で再確認した。

 「アブドーラ、我々の血を血で洗う流血戦は、初期の全日本プロレスのドル箱で、エキサイティングな試合で多くのファンを沸かせた」「聖なるリングで流した血と汗、そしてあの興奮は忘れることはできない」「もう一度あの頃に戻ってもう一度試合をやりたい」

 プロレスというビジネスへの誇りが込められたメッセージには、ブッチャーとの2ショット写真と、近影と見られる自宅周辺の芝生をバックに車イスか歩行器のようなものを押しながら立っている、マスクに赤いジャージー姿で笑っている写真、そして。マスクの似顔絵を模したサインが添えられていた。

 放送では「ザ・デストロイヤーさんはこのメッセージを残した後、3月7日(現地時間)に亡くなりました。謹んでご冥福をお祈りいたします」というテロップが流された。

 デストロイヤーさんの試合を取材する機会はなかったが、私服にマスク姿のデストロイヤーさんを取材現場で見かけることはよくあった。心に残っているのは、楽天がプロ野球に新規参入して間もない頃。楽天のGMを務めていたマーティー・キーナート氏が、友人のデストロイヤーさんを楽天の本拠地(現・楽天生命パーク宮城)に連れてきた時だ。

 マスクをかぶった訪問者を、報道陣が取り囲んだ。その時、キーナート氏が私に「酒井さん、足4の字固めをかけられて下さい」と小声でささやいた。あの「うわさのチャンネル」での徳光和夫アナ役は、“絵作り”としては必要だろう、と思って足を差し出そうとしたが、デストロイヤーさんは、「腰の調子がよくないんだ」というようなことをつぶやいて、キーナート氏のリクエストに苦笑して小さく首を振った。あの時、自分からスタジアムの芝生に寝そべって「絵作りだけでもお願いします」と言えなかったことが今になって悔やまれる。

 「足4の字固め」は、小学生でも“まねごと”ができ、足のフックと力の加減によって、素人からプロ級まで、痛さが調節できる不朽の名技。デストロイヤーさんが力道山にかけた足4の字固めと、徳光アナへのそれはまったくの別技ととらえるべきだろう。「決してまねをしてはいけません」と言われながら、まねしたくなる昭和の子どもたちの好奇心をくすぐった「足4の字固め」。足を骨折したお友だちもいたが、それを日本に紹介したザ・デストロイヤーさんに、“永遠のプロレス少年”を代表して感謝したい。(酒井 隆之)

 ◆ザ・デストロイヤーさんのメッセージ全文

 アブドーラ・ザ・ブッチャー。まず、私の長き終生のライバルであるブッチャー。引退セレモニーに参加して直接、話すことができずに残念だ。本来であれば会って話したかったが、ドクターから長距離のフライトは禁止されているので、メッセージを託すことにする。

 アブドーラ、すばらしいキャリアをお祝いしたい。我々の血を血で洗う流血戦は、初期の全日本プロレスのドル箱で、エキサイティングな試合で多くのファンを沸かせた。そしてその試合は、全日本プロレスの発展にも寄与したと思っている。

 アブドーラ、お前の試合スタイルはとてもユニークで誰もまねできない。他にもまねしようしたレスラーはいたが、あのスタイルはアブドーラだけのものだ。

 私と同じように、プロフェッショナルレスリングのビジネスを愛して、誇りと尊敬の念を抱いて、このビジネスを守り続けた。そして私たちはできることならレスリングを永遠にやりたかった。私はレスリングをできる限り長い間やってきた。お前も同じような気持ちでできるだけレスリングを長くやってきたことと思う。

 ウソは言わない。聖なるリングで流した血と汗、そしてあの興奮は忘れることはできない。観客の歓声までも。でも、お前はラッキーだ。なぜならば自分のキャリアを振り返ってみてくれ。そこにはみじんの後悔もないからだ。そしてプロレスリングの最高の階級で、お前の本当に偉大なる功績が燦然と輝いている。

 お前を一生、忘れない。そしてもう戦えないことはさみしい。あの試合が懐かしい。できることなら、もう一度あの頃に戻ってもう一度試合をやりたい。お前もきっと同じ気持ちだろう。引退おめでとう。永遠のライバル。ザ・デストロイヤー

2019年3月 8日 (金)

馬場さん&ブッチャーに刺さったか、大仁田厚のリアルパイルドライバー…金曜8時のプロレスコラム

 11団体59選手が出場し、プロレスオールスター戦として話題になった「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」「アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念~さらば呪術師~」(2月19日、東京・両国国技館)がいよいよ10日にCS放送 日テレジータス(日テレG+)で全試合が放送される(午後2時30分~午後7時)。

 このコラムでも「懐かしのスーパー・ファイターのテーマが国技館に響いた」というタイトルで紹介した通り、ジャイアント馬場さんが使用した日本テレビのテーマ「スポーツ行進曲」や、アントニオ猪木の「炎のファイター」、アブドーラ・ザ・ブッチャーの「吹けよ風、呼べよ嵐」、ミル・マスカラスの「スカイハイ」など、往年の名曲の数々が流れるほか、日本テレビならではの懐かし映像にも期待できる。

 もちろん主役は今のリングで戦うレスラーたちだ。第1試合の「ジャイアント馬場メモリアルバトルロイヤル」から、三冠ヘビー級王者・宮原健斗(29)=全日本プロレス=と前IWGPヘビー級王者の棚橋弘至(42)=新日本プロレス=がタッグ対決したメインイベントまで9試合が放送されるが、ここでは、“裏の見どころ”を紹介しておこう。

 かつて馬場さんの付き人として息子のようにかわいがられた元参院議員の大仁田厚(61)が出場した第3試合だ。昨年10月に1年ぶり7度目のプロレス復帰を果たした大仁田は、ケンドー・カシン(50)、鈴木秀樹(39)、保坂秀樹(47)と組んで、グレート小鹿(76)、長井満也(50)、石川修司(43)、佐藤光留(38)組とストリートファイト・トルネードバンクハウス8人タッグデスマッチで対戦した。

 注目は机上パイルドライバーでのハプニングだ。ここ数年の大仁田の試合の見せ場で、リングに設置した机の上でパイルドライバーを決め、机を真っ二つに割ってみせる、大道芸のような大技。2人の体重で技を決める前に机が折れてしまったり、パイプの脚の部分が曲がってしまうこともあるため、両国国技館での大一番に備えて、脚の部分を板で固定し、レフェリーまでもが机を支える万全の態勢で大仁田の荒技をサポートしていた。

 佐藤光留を抱えた大仁田だったが、この試合の3日後に人工関節を入れる手術を受けるほど両膝は最悪の状態で、佐藤の体を逆さに持ち上げてから、よろけてしまった。中央に決まれば、バキッと豪快に机が真っ二つになるはずだったが、端にずれたため、鈍い音とともに机は中途半端に崩れた。

 完成形を知る関係者、ファンには寒い空気が漂った。見せ技としては失敗だった。だが、机の残骸を見て驚いた。きれいに佐藤の頭の形の穴が開いていたのだ。下に金具がある強固な木材に丸い穴が。まさに脳天杭打ち=ドリル・ア・ホール・パイルドライバー。写真を見てさらに驚いた。佐藤の体が垂直に逆さに落ちている。机が真っ二つに割れれば、力が分散されただろうが、割れなかったことで、リアルパイルドライバーになった。最初に標的にされそうになった76歳のグレート小鹿が食らわなくて良かった、とつくづく思った。

 佐藤はパンクラス出身で、UWF系ルールのプロレス「ハードヒット」を展開しているが、究極のハードヒットを受けた形だ。そのお返しなのか、佐藤は凶器のギターで大仁田の頭部を殴打。これもハードヒットになった。中央から頭が突き抜ければ、豪快に決まるが、引っかかってしまい、大仁田は、右頭部を裂傷した。“デスマッチの教祖”として、流血戦を得意にしてきた大仁田が、頭髪があって傷口がわかりにくい頭部からの流血に頭を押さえて痛がった。

 大観衆にはわかりにくかったが、テレビ映像では、リアルに痛さが伝わることだろう。試合後に「頭が割れちゃったよ」と苦笑していた大仁田は、血が止まらなかったため、墨田区内の病院に直行。頭部裂創と診断され、7針の縫合手術を受けた。

 転んでもタダでは起きないのが大仁田だ。FMW時代から様々なデスマッチで流血を繰り返し、これまでの傷の縫合針数1499針。これに今回の7針を加え、計1506針となったことを発表。通算7度目の現役復帰を経て、ついに節目の1500針を突破したことをネタにした。

 リングでは何が起こるかわからない。大仁田が今でも現役選手であることの証明となった。流血した大仁田がリングを下りて両国の花道を下がってきた時、セレモニーでスタンバイしていた車イス姿のブッチャーと出くわした。「Long time no see!(お久しぶりです)」と人なつっこく話しかける大仁田に、“流血の元祖”ブッチャーは、馬場さんのような笑顔でハグに応じたのだった。(酒井 隆之)

2019年3月 1日 (金)

祝「週刊プロレス」2000号とターザン山本“活字プロレス”の終焉…金曜8時のプロレスコラム

 「週刊プロレス」(ベースボール・マガジン社、以下BBM社)が今週号で2000号を迎えた。記念号の表紙は、「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」(2月19日、東京・両国国技館)で、三冠ヘビー級王者・宮原健斗(29)=全日本プロレス=と前IWGPヘビー級王者の棚橋弘至(42)=新日本プロレス=が肩を組んでマイクアピールしているシーン。「みんなのプロレス ありがとう 2000号」と書かれている。

 日本で唯一となったプロレス週刊誌を伝承している湯沢直哉編集長(48)には頭が下がる思いだ。何よりの英断は、この記念号に、あのターザンン山本元編集長(72)を登場させ、新旧編集長対談と名物コラム「ザッツ・レスラー」を復刻させていることだろう。

 「週プロ」はターザンン山本を抜きにしては語れない。とは言うものの、新日本などの団体から取材拒否を食らうほどの過激で危険な人物で、さらに現在はプロレスラー「ターザン山本!」として“邪道”大仁田厚(61)と抗争しており、今のプロレスファンには決して受け入れられない存在になっている。

 自らも「活字プロレスが必要のない時代」と語っているターザンだが、1号限りの「週プロ」復活は、読者時代から信奉していた湯沢編集長の恩返しに他ならない。寡黙な編集長だからこそ、その熱い思いが2000号の誌面から伝わってきた。

 昭和のプロレスファンにとって、「週プロ」の2000号到達で思い出すのは、週刊の先駆者で活字プロレスの元祖だった1967年3月創刊の「週刊ファイト」(新大阪新聞発行のタブロイド紙)が1990号(2006年10月4日号)で力尽きたことだ。記念号まであと10号だった。「ファイト」の名物編集長だった故・井上義啓さん(I編集長)の弟子だったターザンの、その後継者が記録を達成した輪廻転生を感慨深く思う。

 2007年3月に「週刊ゴング」(日本スポーツ出版社)が休刊し、一時は5誌も発行されていたプロレス週刊誌が、「週プロ」1誌のみになり、ターザンが「『週刊ゴング、ファイト』を殺したのは誰だ!」(東邦出版)を出版した時にインタビューした。

 当時の記事を振り返ってみると…。

 ターザン山本!。記者なのに、リングに上がりレスラーを挑発したり、猪木からビンタを食らうなど、レスラー顔負けのパフォーマンスを披露。95年4月には東京ドームでBBM社主催のオールスター戦を開催し、プロモーターにまで上り詰めた。批判、スクープ何でもありの報道姿勢に業界を代表して異を唱えた長州力と衝突。新日本プロレスから取材拒否を食らい、責任を取り96年に退職した。

 「編集長時代は『週プロ』を公称40万部売ったんですよ。BBM社の看板雑誌『週刊ベースボール』の部数を超えるという“腸ねん転”の現象を起こし、会社の中では何をやっても許される別格の存在だったんです」と鼻息荒く栄光の過去を自画自賛するターザン。だが退職後に待っていたのは地獄だった。妻と娘が家出し、あげくその妻は当時の部下と再婚。稼いだ1億円は競馬で消え借金生活、おまけに糖尿病で入院…と絵に描いたような不幸が襲った。

 それでも、あの北野武氏に弟子入りし「ビートたかし」の芸名をもらったり、井筒監督と映画本を出版。しぶとくマルチに糊口(ここう)をしのいできた。

 ターザンは「―殺したのは誰だ!」という物騒なタイトルをつけながらも「我々は全員プロレスバカだった。世の中に対して怠け者だったということ」「誰の責任でもないよ」と犯人捜しを避けている。

 「週刊ファイト」で記者デビューしたターザンは、80年に「月刊プロレス」に移籍。83年7月に週刊化を成功させ「週刊ファイト」の部数を食うと、月刊向きだった「ゴング」を挑発して、84年5月に週刊化に追い込んだ。その後「週刊ビッグレスラー」(立風書房)、「週刊ザ・プロレス」(東京スポーツ新聞社)も誕生。週刊誌戦争に火をつけ、ターザンはその先頭に立ってひっかきまわし続けた揚げ句、突出しすぎて追放され、競争社会に自ら幕を引いた。

 「殺した犯人はオレじゃないか? あのまま編集長を続けていれば、(激務で)オレが死んでいたよ。個人で業界そのものと戦ってたんだぜ。めちゃくちゃだよ。ハレンチすぎるねえ」

 12年前に「ハレンチ」と自認していたターザンは、大仁田とのリングでの抗争で、究極のハレンチ道を暴走している。「週プロ」2000号に掲載された「週プロ事件史」では、96年1月にTBS系「ウンナンの桜吹雪は知っている」という番組で、ターザンと大仁田が“裁判”したことが紹介されている。

 95年5月5日に川崎球場で引退試合(2回目)を行った大仁田について、ターザンが「週プロ」で「復帰疑惑」と書いたことで、大仁田が訴えたのだ。そこでターザンは“敗訴”しているが、大仁田は7度の引退と7度の復帰を繰り返し、ターザンとリングで戦っているというのが2019年の真実。ハレンチにもほどがある。

 そしてターザンは、「活字プロレスは今や完全な死語」と言い切った。2000号では、棚橋と宮原のプロレスを湯沢編集長が愛をもって伝えている。そう、この「金曜8時のプロレスコラム」で懐かしむレジェンドたちの昭和プロレスのように、「活字プロレス」も、思い出とともにひもとく古典と位置付けよう。(酒井 隆之)

 

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