読者から頂いたお手紙
スポーツ報知では、東日本大震災から1年となった3月11日、読者の方々からお寄せいただいた「伝えたいこと」を掲載させて頂きました。たくさんのお手紙を頂いた中で、私は茨城県土浦市からお寄せ頂いた主婦、宮下千暁さん(37)とお会いしてきました。
福島県南相馬市の実家で祖母と2人で暮らしていた看護師の母・高橋英子さん(享年53)を亡くしました。遺体も見つからぬまま、昨年9月にお葬式をした悲しみはまだ癒えません。口ごたえばかりしてしまった後悔、亡くして気づいた母への感謝の気持ちを天国に届けたい。手紙をしたためたのは、その一心でした。
1年でどれだけの涙を流したことか。千暁さんが泣かない日はありませんでした。11日、約1500人が集まった南相馬市で催された追悼式でも、ほかの遺族のあいさつを聞くと涙がこぼれてきました。亡くして初めて分かる親のありがたみ。形として残したいという抑えきれない気持ちが、手紙を書かせたようです。
母・英子さんは原町区の介護老人保健施設ヨッシーランドに看護師として勤務していました。海岸線から約2キロ。市は津波到来を想定しておらず、職員の誰もにとって「まさか」のことでした。緊急警報が鳴り響く中、職員60人が車椅子、介護ベッドごと利用者を引きずり出して車で避難させました。
必死の救出作業もむなしく施設利用者136人のうち100人が犠牲になりました。職員はほとんど無事でしたが、唯一帰らぬ人となった職員が英子さんでした。軽自動車で在宅介護に向かう途中で津波に巻き込まれたらしく、いまだに車ごとみつかっていません。
茨城県土浦市で会社員の夫・英明さん(41)と暮らす千暁さんが、母と2人で暮らしていた祖母のマサヨさん(80)と電話がつながったのは震災から数日後でした。マサヨさんも、3日後に施設へ足を運び、行方不明と聞かされるまでは「きっとてんてこ舞いなんだろう」と信じていたそうです。
南相馬市の不明者捜索は自衛隊の第1空挺団が3000人以上、重機約200台を使って行いました。しかし、原発事故の脅威が直撃した市内の捜索は一時中断されるなどで難航。市民の大半は避難しました。祖母も一時は県内の親戚宅に身を寄せたが「英子が帰ってくるかもしれない」と1か月後には自分の判断で戻り、一人で待ち続けました。離れて暮らす千暁さんは母を捜しに行けない悔しさで、拒食症になってしまいました。
長女の千暁さんをはじめ4人の子を産んだ英子さんは、千暁さんが小学1年生の時に離婚。看護師として女手一つで4人の子を育てた。4年前に千暁さんは結婚して、土浦に住んだ。約300キロ離れていますが、英子さんはすぐに軽自動車を飛ばして来る母親でした。2年前の暮れ、夫の祖父の葬儀の時も夜勤明けだったにもかかわらず、駆け付けて来ました。
「意地っ張りなところだけ似てしまった」という千暁さんは面倒見が良い母によく反発したそうです。震災の約2か月前、体外受精でお腹に待望の生命が宿ったが、うまくはいきませんでした。それをきっけにささいなことで言い争ったのが、母との最後の会話になってしまいました。
雪が降る10日、廃墟と化した母の職場に施設関係者の遺族らが集い、追悼式が行われた。海へと続く荒野で、弔いの花火が打ち上げられました。母の介護を受けた犠牲者の遺族の女性から「英子さーん、帰って来て」と声が上がりました。千暁さんは夫に支えられながら泣き崩れました。
そして11日の市主催の追悼式。津波で12人の親族を亡くしたという壮年の男性が、遺族代表で毅然としたあいさつ。千暁さんは「みんな前を向いて生きようとしてるじゃないの」と自分に言い聞かせました。
帰り際、千暁さんは取材に訪れた私にもう一通の手紙を渡してくれました。宛先はお母さん。「天国から安心してみていてください。お母さんのように強くなってみるね」。
震災から9年5ケ月が経ちました。私の頭からは風化する事なく鮮明に記憶にあります。自分事で申し訳ないのですが父親が昨年2月に亡くなり1周忌を終えました。未だに寂しさで胸が締め付けられコロナ渦によって今年は実家近くの墓参りも行けませんでした。そんな時にこの記事を拝見しビックリしました。同じ歳で同郷・・・旧姓高橋千暁さんは同じ中学校の同じクラスではないですか?しかも私は25年前から茨城県かすみがうら市在住なので隣町です。何処かで会ってるかもしれませんが笑顔を絶やさず伸び伸びと生活している事を願います。お互い健康に気をつけて楽しい人生を送りましょう!
投稿: 秋葉真克 | 2020年8月26日 (水) 13:39
先輩はいろんな職場を体験されて来たのですね。今度は是非、谷川さんのお店で八海山でも飲みながらお話しましょう。
投稿: 筆者 | 2012年3月15日 (木) 21:57
実は、前の仕事で東京電力の子会社の下請けを長くやっていて、福島原発にも行ったことがあります。川内村の旅館に泊まって良く仕事をしました。旅館のおばちゃんは今どうしているのだろうか…。世話になった子会社の方たちもどうしているのだろうか…。住民の皆さんも大変だが、東電の下っ端社員や下請け、子会社の方たちも大変だろうな…と思うこの頃です。
川内村では週刊誌が1週間遅れて発売されるということが、すごいカルチャーショックだったことを思い出します…。
投稿: nagakubo. | 2012年3月15日 (木) 19:36