母校、立教大学が戦後70年を機に開催している企画展「戦時下、立教の日々 1931-1945」を観てきました。
立教大は米国聖公会の宣教師が創った学校。聖公会のルーツは英国国教会なのでまさに戦時中は「英米の敵性宗教」とみなされていたわけですが、戦時中はどうだったのか、というのは卒業生の私にとっても長年の関心事でした。

真珠湾攻撃の翌年の1942年(昭和17年)には学則から「キリスト教主義」やチャプレンについての規定を削除。学長の遠山郁三は就任あいさつ文で「皇室なくば我民族はない」国家主義を煽っています。... そして滑稽だったのは校歌変更を知らせる校内誌の内容。かいつまんで趣旨を説明すると「時局を鑑みるに校歌の『自由の学府』は許されなくなった。そこで待望の新校歌」となっています。 その歌詞は「大華すすむ大東亜 学徒の任ぞ いや高く」と戦意を煽るもの。1943年(昭和18年)の学徒出陣以降は立教の学生も戦地に送り出されました。私が育った立教山岳部の名簿を見ても、当時の部員は戦死者が多い。きちんと調べないと分かりませんが、極地でも機動力を発揮できる山岳部員は最前線に送り込まれたのではないか、と想像しています。

敵国・英米との橋渡しともなるべきだったはずの日本聖公会は全面的に英米との戦争に賛成、協力しました。それを懺悔するのが前後50年あたる1995年だったというのには呆れてしまうわけですが、個人の信徒の中にはカトリックとの合同を拒絶して憲兵に手錠をかけられる人もいたことを展示で知りました。
また理系を重視する戦時中の風潮の中で立教大学医学部設置構想があったということも興味深かったです。

企画展では、当時立教の学生で「小型映画研究会」を創設した、後の民俗学者、宮本馨太郎氏(1911-1979)が遺した映像も上映。立教野球部が初優勝した1931年、池袋の商店街が祝勝セールで沸く様子など、大変貴重な映像を観ることができます。
展示は9月4日まで。入場は無料。どなたでも自由に見学できます。

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