「砂まみれの名将 野村克也の1140日」
新潮社の新刊「砂まみれの名将 野村克也の1140日」(加藤弘士著)を読みました。
言わずと知れた球界きっての知将。愛妻の後を追うようにして霊山へと旅立ち、早くも2年が過ぎた。少年時代は貧困に育ち、卓越した運動能力を活かして「食っていくために」球界入り。現役時代は華やかな長嶋茂雄に対して自らを「月見草」と称した。引退後には指導者として、数々の一流選手を育てただけでなく、伸び悩む選手をも次々と再生していった―。
活字をこよなく愛するこの人物の著書は膨大であり、功績はすでに多くの人に語り尽くされたようにも思う。だが「尽くされた」とは言い切れぬ空白の期間があったのではないか。
本書は野村氏が社会人野球チーム、シダックスの監督を務めた2003年から2005年の3年間、番記者だった記者が当時を振り返り、果敢な追加取材を経て、語られていなかったノムさん像を浮かび上がらせたノンフィクション作品だ。
阪神監督を限りなく解任に近いかたちで辞任に追いやられ、アマチュア野球の指導者に転じた名将。億単位の年俸を得ていた生活と決別し、砂ぼこりにまみれた球場で、自らの原点に立ち戻ることには、どんな意味があったのか。著者は自らの靴底をすり減らし、野村氏を追いかけた日々を振り返りながら、その問を解いていく。
どれほどまで取材対象に惚れ込んでも、記者は広報とは異なる立場を守らなくてはいけない。不祥事があったならば、その事実は当然、しっかりと書かなくてはいけない。それだけではない。進退などに関わる他紙とのニュース合戦は、書かれる側にとっては迷惑千万としか言いようがないが、放棄すれば記者としての「死」を意味する。
真剣に取材に打ち込んだが故に、関係者を激怒させるという事態に見舞われたことがない記者は、まずいないだろう。著者はその悲哀も余すところなく綴っている。
優れた人物ノンフィクションは、書かれた本人も知らなかった人物像を描き出すものだ。決して美談ばかりに終始しない。書かれたくない話もあるだろう。だが、そこに自伝とは異なる意義がある。門外漢ながら一読者として思うのは、この本を天国の野村氏にも読んでみて欲しいということだ。どんな名言が飛び出すだろうか。
本書の端正な文章には、野村氏への愛情と、その実像を読者に伝えたいという情熱がほとばしっている。そこに知られていなかった事実を盛り込んだ。掛け値なしの傑作というしかない。
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