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2020年11月26日 (木)

プロ登山家・竹内洋岳さんの新たな挑戦

プロ登山家の竹内洋岳さん=ハニーコミュニケーションズ=が25日、客員教授を務める母校・立正大学(東京都品川区)で開催された「データサイエンス学部」新設の記者会見に出席し、「データ社会の新時代を登山の進化から読み解く」と題してトークセッションを行いました。
 来年4月に熊谷キャンパスに新設されるというこの学部は、ビジネスや世の中を変えるような新しい仕組みを生み出す「価値創造」を目指す学部。なんだか山登りとは関係なさそうですが、さにあらず、なのです。

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 1924年にエベレスト初登頂を目指して遭難した英国の登山家、ジョージ・マロリーの衣装で登壇した竹内さんは「古臭い衣装と思われがちですが、当時はこのすべてが最先端だったんです」と解説。百年前の1920年代の登山は、当時の最先端の技術を使っていた。ならば、2020年代の登山も、今の最先端テクノロジーを使って登るべきではないか。これが、竹内さんの登山に対する価値観であり、プロ意識であると言って良いでしょう。
 これまでも竹内さんは、カシオ計算機が生み出した登山用腕時計「PROTREK」を愛用。「人間が到達できる最も過酷な環境」である8000メートル峰で使用することにより、カシオの開発担当者の牛山和人さんとともに時計の機能を進化させて来ています。一緒に登壇した牛山さんは「最初のPROTREKを竹内さんに酷評されたことが、(開発の)原動力でした」と振り返っていました。
 トークの中で、司会者から「登山の価値を高め、それを社会にどう結び付けていくか」と問われると、竹内さんは「難しい質問ですね…」と苦笑いしてから、こう答えました。
 「逃げることのできない大きな課題です。(登山や冒険の)先輩方はそこにもがいてきた。ヴァスコ・ダ・ガマがヨーロッパからインドへ航海することで新しい航路が発見されたし、北極や南極を探検することで新たな学術がもたらされた。現代は何ができるのか。それを見つけ出すのが、私の役割だと考えています」
 竹内さんが、思わず正直に「難しい」ともらしたとおり、登山や冒険を「社会に役立たせる」ほど困難なことはないでしょう。
 「なぜ山(エベレスト)に登るか」と問われて「そこに山(エベレスト)があるからだ」と答えたマロリーも、社会的意義よりも「行きたい」という気持ちが大きかったのではないでしょうか。ヨットでの単独太平洋横断に成功した堀江謙一さんも、理由を尋ねられて「行きたいから行ったんですよ、としか言いようがない」と答えていましたが、同じことだと思います。登山や冒険では、社会的な意義は考えない場合のほうが、むしろ自然なのではないでしょうか。
 そう考えると、竹内さんのこの挑戦こそが人類にとっての「未踏峰」なのかもしれません。竹内さんの「山の標高は変えられないが、山の価値を高めることはできる」という言葉を聞いて、そう思いました。

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2018年11月 5日 (月)

川口選手、お疲れさまでした。

サッカーの元日本代表GK川口能活選手が引退。

 私が川口さんを取材させて頂いたのはマリノス担当をしていた2000年。フランスW杯を経験し、超一流の選手であるにも関わらず、気さくで礼儀正しく人格的にも尊敬できるアスリートでした。

 私のことも名前を覚えてくださり、練習後はよく取り留めもない雑談をして楽しみました。記者を信用してくれているのか、こちらが「大丈夫かよ」と気遣うほどに、開けっぴろげな話をしてくれることもありました(ここでは書けませんが)。.

 私が最も印象に残っているのは、マリノスがホームゲームでの集客のために現役の選手たちを駆りだして、新横浜駅前で選手たちにビラまきをやらせた時のこと。しかしその中には中村俊輔選手や川口選手のようなスター選手は含まれていませんでした。

 選手によるビラまきのことを川口さんに聞くと「もちろん、それはいいことだと思いますよ。ですが、やるんだったら自分も含めて選手全員でやるべきですよときっぱりと言い切りました。

 この年、マリノスは見事に1stで優勝。アルディレス監督を中心とした素晴らしいチームで、私も取材記者としてサッカーの素晴らしさを学ばせて頂きました。

 あれから18年も、Jリーグで活躍されたとは驚くばかりです。担当を離れてからお会いしていませんが、きっとストイックな選手生活を続けていらしたことでしょう。

 長い間お疲れさまでした。川口さんは素晴らしい指導者になられると思います。第二の人生がさらに輝かしいものとなるよう、祈念しております。

2018年1月16日 (火)

北太樹関、お疲れ様でした。

  元幕内・北太樹が引退。けがに悩まされながら戦いきった20年の土俵生活だったと思います。写真は彼がまだ幕下だった頃、私が撮影してみたもの。いずれは必ず幕の内で相撲を取る日が来るだろうと応援しながら見ていました。

 入門前には町田市の少年団でゴールキーパーをやっていたサッカー少年。気さくな人懐っこさがある好青年でした。彼がまだ「若い衆」だった頃に東京や名古屋で一緒に飲みに行ったのもよい思い出です。北太樹関、お疲れ様でした。第2の人生も素晴らしいものとなるようお祈りしています。

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2017年5月13日 (土)

朝赤龍関、お疲れ様でした。

元関脇の朝赤龍が引退。年寄「錦島」を襲名しました。

 写真は2003年3月22日。春場所中の朝稽古後に毎日新聞カメラマンの松田嘉徳さんが撮ってくれたものです。

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 なぜ私が坊主刈にしているかと言えば、この数日前、高砂部屋の序ノ口力士と私ではどちらが強いかという話になり、三本勝負を行っていました。負けたほうが頭を丸めるという約束だったので、序ノ口力士には引退がかかった勝負となりました。向こうは本気で来るので、全く歯が立たず、3本とも完敗でした。その時の行司・勝負審判が朝赤龍。

 物静かで、非常にインテリジェンスを感じる人物です。ある日、算数の難問を私に出題してきて、全く解けないことがありました。悔しいので本屋さんで中学入試の算数問題集を買って来て、つるかめ算か何かの問題を逆に出題してやったことがあるのですが、なんとスラスラ解かれてしまったのです。これには驚きました。

 頭脳明晰は親方として今後も活躍されるでしょう。長い現役生活、お疲れ様でした。

2017年5月 2日 (火)

横綱・佐田の山と「007」

 大相撲担当時代に大変可愛がっていただいた元横綱・佐田の山で、日本相撲協会理事長も務めた市川晋松さんが27日に亡くなったことが発表されました。毎場所ごとにお食事に誘っていただき、美味しいお酒とお料理をご馳走になりました。山登りという共通の趣味があり、「一緒に行きましょう」と意気投合させて頂いたのに実現しなかったのが悔やまれます。 2日付のスポーツ報知には親方から聞いたとっておきのエピソードを紹介させて頂きました。「007は二度死ぬ」で共演したときの真相とは?お人柄を偲ばせるエピソードだと思います。是非ご覧下さい。

http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20170502-OHT1T50066.html

2017年5月 1日 (月)

ヒクソン・グレイシー写真展

 日本の格闘技をリングサイドで撮り続けてきた写真家・長尾迪さんのヒクソン・グレイシーの写真展「MMA LEGEND Vol.1 Rickson Gracie Photo by Susumu Nagao」が1日から東京・世田谷区成城の「スタジオf-1成城」で始まりました。

   1994年の初来日から高田延彦戦を経て、米ロサンゼルスで暮らす現在までのヒクソンの写真、約50点が展示されています。特に現役時代の筋肉が隆起した写真は、最強と恐れられた往年のヒクソンの迫力が伝わって来ます。

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 長尾さんは1990年初頭から格闘技の撮影を始めました。K-1などで格闘技ブームに火がつく前。UFCでもオフィシャルカメラマンを務めています。

 ヒクソンの次男、クロン・グレイシーが日本デビュー戦を迎えた2014年12月、有明コロシアムで長尾さんはヒクソンからこう言われたそうです。

 「私は残念ながら引退してしまったが、ススム(長尾さん)はこれからもずっとリングサイドで写真を撮り続けなければいけない。若くて才能あふれる選手たちが戦う姿をお前が撮らなくて誰が撮影するのだ!」

 この言葉で長尾さんは「生涯現役で撮り続けよう」と決意したのだそうです。

 展示は7日まで(入場料500円、ワンドリンク・オリジナルグッズ付)。5日にはヒクソンと対戦した中井祐樹氏を、6日には日本で初めてヒクソンを招へいしたジークンドーの正インストラクター、中村頼永氏を招いてトークイベント(両日ともに14時から)を開催予定です。

   場所は東京都世田谷区成城1-2-7  東宝スタジオのすぐ近くです。

2017年3月25日 (土)

北斗龍さん、お疲れ様でした。

 現役最古参の序ノ口・北斗龍さん(46)が引退。最終場所となった春場所で4勝3敗と勝ち越して土俵を去りました。1986年春場所が初土俵。私と同い年の力士が昨日まで相撲を取り続けていたというだけで驚きです。北海道から上京し、北の湖部屋創設と同時に入門した31年間の土俵人生、お疲れ様でした。

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 2014年の春場所後には糖尿病の影響で左足親指を切断。入院していた同愛病院へ私が見舞いに行った時には切断した患部に包帯を巻いて車椅子に乗っていたので「ついに引退か」と確信したのですが、その年の秋場所から土俵に上がっていると聞いたときには本当に驚きました。

 私が北斗龍さんを記事に書いたのは自分が新人記者だった1996年夏場所の5月22日。幕下以下の力士にスポットを当てる北海道版「北のやぐら太鼓」で取り上げさせて頂きました。当時私も彼もまだ25歳でしたが、記事にはすでに「ベテラン」「糖尿病とも闘っている」と書かれていました(笑)。あれから21年も取り続けた北斗龍さん。第二の人生も味わい深いものとしていってください。

2017年2月 7日 (火)

さようなら時天空

天空 東京・両国の回向院で営まれた時天空関の葬儀に一般参列者として行って参りました。元気だった頃の写真や化粧まわしを見ると、やはりこみ上げてくるものがありました。

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 私がモンゴルでお世話になった喪主のお父様とは14年ぶりにお目にかかりましたが、まさかこんな形でお目にかかるとは思いま せんでした。
 同部屋の豊ノ島関の声を詰まらせながらの弔辞は思いが伝わってくるものでした。「いつかまた一緒に相撲を取ろう」と。

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 なかなか実感が沸きませんでしたが、遠い天空へと旅立って行ってしまったんだなあ。
あなたの強さと優しさはいつまでも忘れません。

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2017年2月 4日 (土)

岡野俊一郎さんの思い出

 元日本サッカー協会長の岡野俊一郎さんが2日、肺がんのため、東京都内の病院で85歳で亡くなりました。

 東大卒のインテリでご実家は上野の老舗和菓子屋さん。私はFW三浦知良選手の取材でクロアチア・ザグレブにいたときにザグレブのインターコンチネンタルホテルで、岡野会長とコーヒーを飲みながらお話を伺った思い出があります。1999年3月12日のことでした。
 
 当時のカズさんは、前年のフランスW杯でまさかの代表落ち。傷心のまま向かった新天地がザグレブでした。現役選手としての情熱を燃やすカズさんに対して、岡野さんは直接激励の言葉をかけたい気持ちが強いようでした。18年も前のことですが、淡々とした言葉でカズさんを気遣っていた岡野さんのことは今でもよく覚えています。

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2017年1月22日 (日)

祝・稀勢の里、初優勝!

祝・稀勢の里、初優勝!

 私が彼を取材したのは新弟子時代から新三役となった2006年名古屋場所まで。貴乃花以来の和製大器と期待され続けて、あれから10年以上が過ぎ、悲願の初優勝は感動的でした。

 最初に彼を大きく取り上げたのは2004年春場所9日目。東幕下筆頭・萩原(17)が勝ち越しを決めて、貴乃花の17歳2か月に次ぐ史上2位の17歳9か月での十両昇進を決めた取組でした。

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 師匠の故・鳴戸親方(元横綱・隆の里)が「入門当初から大地をかみしめる天狗の団扇のような足に素質を感じていた」としみじみ話していたのを思い出します。

 この頃から本人は口数が少なかったのですが、中学時代の野球部や体育祭、合唱コンクールで指揮者をやっている写真などを入手して紙面で紹介させてもらいました。

 当時も今もなかなかマスコミ向きのサービスはしてくれないのですが「土俵で全てを語る」という姿勢が私は好きです。優勝決定後に見せた一筋の涙がすべてを物語っていました。言葉はいりません。

甲斐毅彦

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